煙草

なんだか煙草が不味い。
この一箱を2週間ぐらいかけて吸っているからだと思う。
機会がなければ、別に吸わない、という距離感のまま、なんとなく何年も煙草を吸う習慣は続いている。
喫茶店や飲み屋、音楽のイベントに行けば1箱でもすぐに吸い尽くしてしまう。
夏の夜に涼しい風を嗅ぎながら、冬の朝にキリキリ冷たい空気を吸い込みながら火を点けるのが好きだ。
年に一度か二度会っては、何時間も喋り通してしまう友達によく似てる。その少しの間だけ、自分が口下手なことから逃れられる。いい景色がより良く見える。火が燃え尽きたらその場を立ち去る言い訳になる。
大学生の時、喫煙所に溜まるのが好きだった。通っていた学校にはいくつも喫煙所があって、なんとなく時間と曜日で顔ぶれが決まっていて、そこでゆるく顔を合わせる感じが好きだった。
いつも寝てしまう社会学の講義で、コミュニティについてレポートを書く時、地域や家族でも、会社や学校でもないゆるい繋がりがあるといい、喫煙でのコミュニケーションはそのゆるさがある、みたいなものを書いたことがあった。
やっぱりそういうことをやりたいなあと思う。ゆるい場を作りたい。
昔からイベントとか企画とかやってみてたけど、またやってもいいかもしれない。

スピリチャルのゲートドラッグ

わたしはスピリチャルなものがあまり好きではない。
正確には、理由は3つある。
①お金を儲けたり人を操作しようとする仕組みがあることが嫌い
②「正しさ」を盲信して客観性を欠くひとが苦手
③人生が改善したことを「得体の知れないなにか」の力によるとするのが嫌い

スピリチャルは、プログラミングと同じだと思う。
ただ、世界は、プログラミングとは比べものにならないほど様々な要素が複雑に絡み合ってできている。
だからそれを思うように改変するのは難しい。
それを(ある程度)読み解いてコントロールしようとする試みがスピリチャルだ。

神様は、いるけどいない。
ひとは神様に頭を垂れて祈るあいだ、自分がなにを望み、なにができるのかを考え、改めて知ることができる。
わたしは台所に熊手を飾っている。
熊手は装置だ。
熊手を目にする度、見守られている間は、善く生きるため、あと出世に努力しなければならない、と、思う。
その思考を、熊手は呼び起こす。呼び起こすための装置として存在している。
ひとは善く生きようと生活の中でなかなか思う時間がない。
だから、一瞬でも人生を大きな視点で真剣に考えるための装置が必要だ。
それが神様だ。神様に照らして、自分がどう生きるかを考える。
だから、神様のお陰で成功するのではない。
神様に向き合ってよく考えた自分のおかげで成功する。
世界を変える大きな力は自分の中にある。それを神様と呼ぶのならまあ説明はつく。
その成功(または失敗)の成功経験や責任を、自分の外にあるもののせい(お陰)にするから、こじれてくる。
不信心が理由でバチが当たるのじゃない。
バチが当たったのじゃなく、不信心つまりは、自分や世界と真剣に向き合わなかったことや、世界のプログラムの巡り合わせに悪く失敗しただけだ。
原因と、結果が逆なんだ。

SELF CLEANING BOOK―あたらしい自分になる本

SELF CLEANING BOOK―あたらしい自分になる本

リンク先の本は、ソフトなスピリチャルの本だ。
この本は、生活をより良くしていくためのスピリチャルな方法が柔和な語り口で書かれている。
押し付けがましさもないし、できる範囲ではじめなよ、という雰囲気は好きだ。
部屋を綺麗にすると気持ちがいいよ、とか、「ありがとう」と
でも、どうしてこんなに良い方法をいくつも知っているひとでも、原因と結果を入れ替えてしまうのだろう。

スピリチャルのひとたちの勧める生活の中で心をfixする方法は、おおむね効果がある。
行動として正しいから効果がある。
部屋を綺麗にするといろいろ上手く回るようになるよ!という話があるんだけど、その中にこんな感じの一文があった。
「うつっぽいひとって、部屋が汚れているっていうでしょ。部屋はこころの鏡ともいうよね」
部屋が汚れているからうつっぽいんじゃない。
うつっぽいから部屋が汚れているんだ。
部屋を綺麗にしたら、視覚的な情報量も減るし、選択や判断をするコストも減って、脳にかかる負荷が減るから、うつ状態は多少改善するだろう。
改善するのはなにかわけのわからない力のためじゃない。
たとえば心が落ち着いていれば部屋が汚くったってよかろう。
うつっぽいひとでも部屋がきれいなひとはいるだろう。
でも、行動の方から身体や心をfixしていくのは、良い視点だと思う。

だけど、解読しきれない情報というのはある。
世界は情報だ。すべてに意味があり、すべてに意味がない。
わたしが新宿をなんとなく嫌だと思う理由は、分解して説明できない。
なんとなく嫌だとは毎回思う。バイブスが合わないとしか表現できない。
「バイブス」に含まれるのは、わたしの脳や身体が感じる気圧だったり、空気の匂いや湿度だったり、光の量だったり、音や人の量、そういう細かい細かい外的要因だ。生理とか空腹とか、自分の身体の問題や過去の記憶もそれに含まれるだろう。
それがまとめられて答えだけがはじき出される。なんか嫌、なんかここは合わない。
それの名前は霊でもバイブスでもなんでもいい。
論理を読み解けないからといって、自分のコントロール外のもののようにして逃げてしまって、方法にだけ固執するのは気に食わない。

毎日100人ぐらいのレジ打ちするアルバイトをしていたら、「わかってしまう」ようになったことがある。
レジに向かってくるお客の表情や肌の色、微妙な体の動きや荷物の持ちかたで、本にカバーをつけたがるタイプかどうか、ビニール袋を欲しがるかどうか、「わかる」ようになった。
急いでいる消費者は赤ちゃんのように傲慢なので、どのようなトーンとスピードの声色で話しかければトラブルが起こらないかも瞬時に「わかる」ようになった。
それは単に、わたしがAIのようにレジ打ちだけを毎日毎日し続けた結果、データが蓄積されて、計算スピードも上がって思考でそれを読み解けなくなって、答えだけが出てくる状態になったのだった。
それが進んで、街ゆく人の顔をみて、今この人は内臓が悪いとか、そういうことが頭に浮かんでくるようになった。
計算式がみえないから、それが、自分の根拠のない病的な思い込みなのか、ファクトとしてその推測を感ずるに至る要素が相手に存在するのかわからないのが不気味だった。
「わかっている」のではなく、単に予測の精度が高いのに、自分自身が「わかっている」としか思えなくなってきて、それが恐ろしかった。
それでそのアルバイトは辞めた。

上に書いた本はひとに勧められて読んで、ときどき、人生のわけがわからなくなったときに、それを改善させられる方法がいくつも書いてあるので、大事に持っている。
書いて物事を整理するとか、自分の希望を洗い出すとかそういうのはときどき実践する。
でも、「天からの」とか「高次の記憶」みたいなことにはいちいち心の中で反論するようにしている。
理屈っぽいひとにこそ、原因と結果の公式をいくつも示すスピリチャルはフィットする。それは、よくわかる。
だからこそ、絶えず警戒しつづけて、こういうゲートドラッグも蹴り付けながら参考にする。

Java(オブジェクト指向プログラミング)

今日は、オブジェクト指向プログラミングがらみでjava utilパッケージに含まれるクラス?インターフェース?を利用しての色々の発展系を勉強した日だった。寝坊した。
正直いって、情報量が多くてサッパリついてゆけてない。
ついてゆけてないので、ついてゆけてないなりに頭を整理するために日記にも書くことにした。
・Listの利用
配列と似たようなものだけど、配列は要素数が固定されてるのに対して、Listは要素数が限定されない。
for文や拡張for文で要素を処理できる。
・setの利用
要素の集合をあらわすインターフェース。要素を追加した順番は保持されない。同じ要素は複数追加できない。
・Mapの利用
キーと値(Key,Value)の組み(マッピング)を保持するインターフェース。特定の項目名と要素をセットにして維持するとかそんな感じ。これも、同一キーは複数追加できない、要素の追加順は特に保持されない(でもコンソールに出力したときの順番は毎回変わる訳じゃなくて、あの並び順はどういう基準で並び替えてるのだろう?)
・StringBuilderの利用
単純なStringと違って、これで書かれた文字列では位置を指定したりして追加したり削除したり置き換えたりを操作して変更することができる。
固定文字列でないので、文字列を変更するときのメモリの消耗が少ないらしい?
・日付と時刻
Dateクラス、Calendarクラス、SE8から加わったDate and Time APIというのの使い方を勉強したけどぼんやりしてしまった。
サマータイムの話があって、サマータイムウィキペディアを眺めて終わってしまった。、、、今日は豚肉と筍とブロッコリの中華風炒めと桃にしようとか考えてた。でも寝なかった。

インターフェースっていうのがそもそもよく掴めない。なんなんだ?
なにか作りたいものをイメージして勉強すると、もうちょい身を入れて勉強できるだろうか。
こういう概念はひたすら写経して書いて覚えるしかなさそう。

インターネット立身出世ロード

munchies

酒を飲んで音楽のイベントで暴れなくなってから、脂肪も筋肉も落ちてだいぶ痩せた。
同居人に言わせれば自分はだいぶ太ったそうだけどもっとムチムチと筋肉の上に脂が乗っていた頃があった。
酒を飲むと自分は所謂「マンチ」に入ってラーメン2杯とか食べてしまう。
明日をも知れない気持ち、やりきれない気持ちがあると、怪我なんて構わず投げやりにモッシュしたりダイブしたくなるものだけれど、そういう気分も今は手元に持ち合わせていない。

「マンチ」の語源が気になって調べていたら、英語に「manchies」、小腹が空いたとかそういうスラングがあるらしい。生きるためには必要がないけど食べ物がほしくなってしまう、みたいなニュアンスなんだと感じる。普通以外の用法だと大麻絡みのことで使われる。
調べていたら大麻から脱ドラにハマってしまったというひとの私小説が出てきて面白いので読んでいる。
ncode.syosetu.com

5月にみたライブは良くなかった。
うまく言えないけれど、すごい好きで、つきあってないけど関係のあった異性との蜜月が去って、他の女性とイチャイチャしているのを見たときのあの感じに似ていた。
それで、なんか最悪な気分になってた。

けっこう悩んで、昨夜のイベントは行かなかった。
自分にとって良くないとわかっているのに、他に行く場所がないから足が向いてしまうところってある。
そういうものからなかなか逃れられない。

むかしすごい「好き」だった異性がいた。16才の頃から6年くらい好きだった。
そんなにも「好き」だったはずなのに別に劇的な事件やスイッチポイントもなくいつのまにか縁が切れた。その頃自分はアルバイト一生懸命やって楽しんで、音楽でも新しいフィールドを見つけて楽しんで交友関係も広がって健康になっていったら、いつのまにかそうなっていた。

依存しているものと縁が切れるとき劇的な別れはなくて、ソレを選ばない、ソレに向かわない、という選択が繰り返されることが別れに代わる。
薬でも酒でもタバコでも同じだ。
それと依存先は複数作れという話があるけど本当にそうだ。
コミュニティや趣味が1個ダメになっても他に向かってゆく先があればダメにしたところにまた舞い戻る必要はないという理屈だ。
最近はひとりでも楽しんで過ごせるけど友達というか話相手はもう少し欲しい。

ひきこもってメンタルヘルスが悪化していた頃、マイスリーという薬が処方されていた。
これは独特な使用感の睡眠薬で、よくそれを悪用してラリって、一時だけ現実から逃れていた。
で、もう離れて2年ぐらい経ってから、祖父が持っている薬の中にその錠剤があるのを見つけて一瞬すごい唾液が出て欲求に駆られたことがあって恐ろしかった。
(悪用しすぎて処方されなくなったあとにパブロンを飲んでたがアレは味が苦手だし気分も良くならなくて、その後就職してから仕事で使う「山吹色」の紙を見るだけで舌の奥が味を思い出して甘苦くなった。記憶は強力だ。いまもあんまりパブロンは飲みたくない。)
依存との別れは、それを選ばないことの連続だ。

で、何かを選ばないことも選ぶことも自分の自由で裏切りでもなんでもないので、それで気負ったりする必要は全然ない。
いつでも、自分が本当に楽しめるものを選べることが大切だ。

有名には別になりたくないっぽい

インターネット立身出世をしてみたいなと思ってSEOを意識したはてなブログを作ってそういう文体での記事も書いてみたけど無理だった(実はそれも意識してわざわざアイコンもつくった)。
なぜそういうことをしたかというと、文章でちょっと有名になりたい、お金がほしい、と一瞬思ったわけだけど、それより自分のできるやり方で継続して、何人かのひとに読んでもらえれば十分だ。
自分の属性や病気や障害をtwitterの自己紹介やブログのタイトルにいっぱい書いている人がさいきん多い。
多いと感じるのは、そういうひとのことは見つけやすいし繋がりやすいからだ。
自分は発達のことに興味があるから多くフォローしている。そういう、障害にアイデンティティを置いて情報発信をしてくれるひとは、情報を辿るのにありがたい。
で、やらしいので自分もそういうことを真似してインターネット立身出世して友達がほしいなあと思ったものの、やっぱたぶん自分のスタンスとは違うな、と思った。
そういうことについて自分のできるやり方で語って、これまでとは違うコミュニティで、ゆるく繋がれるひとがすこし出来たらいいなあと思う。
みんなマメでよく考えていてすごいよな。

また母の話

カフェインを摂ってスピンリングをいじりながら勉強をしている。
なにか新しいことを学ぶなかで、内容が理解できたか・できないか、以前に、まず自分がクリアすべきことが3つある。

①できるかできないかに関わらず毎日向き合う習慣をつけること
②習慣のなかで、自分が学びやすいやり方をみつけること
③それを学ぶことに挫折感を抱かないこと

この3つは、どれかで挫けるとうまく行かなくなる。自分は少なくともそうだ。学ぶことはそもそも継続するのがいちばん難しい。
むかし、勉強は得意だった。小学校ぐらいまでの内容は特に「勉強」というように勉強したりしなかった。
自分は小さな頃から異様なまでに語彙力があった。
小学校ぐらいまでの勉強は、文章の読解をしたり表現をしたりに苦労がないというだけでかなりのアドバンテージで、勉強はクイズみたいなものだったし、やれば褒められるのでやった。
わたしは漢字なんかも三回書けば大抵のことは覚えるタチだった。なので暗記も好きだった。47都道府県の県庁所在地と名産品をすべて完璧に言えたが今やそんなことはとっくに忘れた。
勉強は楽しかった。
だから中学に入ってつまずいて、叱責されたりプレッシャーをかけられるようになってからはできなくなった。
そのうちに周囲も人間らしい語彙力、文章力がついてきて、ちょっとひとより言葉を知ってるぐらいじゃアドバンテージにならなくなってきた。
中学生にもなれば覚えるべき事の量も、47都道府県どころじゃ追いつかなくなってくる。
小学生時代に苦労したりしてうまい具合に「勉強のやり方」を覚えたひとたちにどんどん追いつかれ、追い抜かれて、すっかり自信をなくしてしまった。
そのくせプライドはめちゃくちゃに高いまま今に至る。
100点、90点を毎回取れるよりも、平均点以上を全部の教科で取れる事こそが世の中をわたるにしても必要なスキルだということが、今の今まで実感としてわからなかった。
良い点をとっても、あんまり褒められなかったように思う。それよりも、悪い点を取ったときはけっこうなプレッシャーをかけられた。
それと、母が言った言葉で覚えているのは、「あなたは運動はダメなんだから、勉強だけはちゃんと頑張りなさい」みたいな内容のことだ。
なんでこんなにいくつもいくつも、むかしに、母親に言われたことを、頭の隅からほじくり返して思い出してしまうんだろうな。
やってもできないから、やりたくなくなるし、どんどん勉強のやり方がわからなくなるし、そのうちに机に向かえなくなった。
自分はだめだと思うと学校も辛くなっていた。

いつからか、朝6時起きで学校に通うのが辛かったこともあって、授業中に寝てしまうようになった。
そして、さいきんわかったことだが、講義の内容が理解できないシチュエーションでも気絶するように寝てしまう。
だからわからないところが余計にわからなくなる。
そしてまたやりたくなくなる。
寝てしまう自分が本当に嫌になって、それから、どうせやってもだめだし、失敗するのが怖い、と思うともうだめだ。

いまやっている勉強でも、話が難しくなってくると寝てしまう。
なるべく睡眠を8時間以上とって、カフェインを入れ、スピンリングをいじくっていると、とりあえず寝ないでいることはできる(割と)。
家での復習はなかなか進まないけど、とにかく机に向かう習慣もつきはじめた。

勉強で一番大事なのは、それを続けられる力だと思う。
そんなことはずっと言われてきたはずだのに、わたしは怠け者で勉強をしなくて成績がわるくてダメなやつだ、といつも母から言われていたなあ。
さいきん、むかしの成績表をみたら、ぱっとみてそんなに悲惨な成績でもなかった。
あの頃のわたしは自分はどん底にいると思っていた。子供は世界が狭いから、思い込んでしまうものだ。
大人になれてよかったと思うのは、母から離れて、自分が良いと思うやり方を自分の判断で試してみても誰からも批判されないことだ。

頭の回路にアースを

やっぱり昔のことを思い返すと本題から離れて長くなってしまう。
スピンリングをいじくる、だとか、飴を舐めるだとか、ラジオをかけるとか、そういうことが自分の勉強には必要だということが書きたかったのに。
この間IQを測ったら、言語IQというのが高くて、動作IQというのが平均値ぐらいで、前者と数値では30ぐらいギャップのあることがわたしの人生の苦しみの根源らしい。
頭の回転が半端に高いせいで、セルフイメージに身体が追いつかないから苦しいみたいなことだ。
(半端に高いIQがいつでもいつも邪魔になって、革命ばかりを夢見るばかりで何もできない…って歌詞がいちばんイメージに近い)
このIQのパラメータ分布にギャップが少ないひとほど、IQの高さとかではなく社会的にうまく渡っていきやすいらしい。身の丈みたいなことだ。
なので数値にして30のIQは余ってしまう。
余ったIQが余計なことを考えて、貧乏ゆすりになったり気が散ったり不安になったりスパークしてわたしを気絶寝させたりするのではないかと思う。
その思考回路をスピンリングをいじることに逃がす。飴を舐めて逃がす。ラジオをつけて逃がす。
半分くらいの力で動かさす。
わたしの手が、身体が追いつくやり方で勉強をする。
脳みそ7割ぐらいに抑える方法をこれからも探していく。

17/06/15 Thu.

さいきんよくみるラジオみたいな書き出しのブログは自分にはやっぱりかけない。
短い文と章立てで進んでゆくのは読みやすくて楽しいと思うけど、ああいうノリに乗り切れない。
着ぐるみを着るような感じになる。
でも書き出しが定まってるとすごく書くことのハードルがさがって継続しやすくなる。
自分がブログというものから離れていた7年ぐらいの間に、そういうノウハウがかなり世の中で蓄積されたんだな。

ゆるいつながり

やっぱり店みたいなものを持ってみたい。
店というか、開かれた居間みたいなものというか、部室みたいなものを作ってみたい。
開かれていて、去るものを追わず、来るものは拒まず、ずっと居座る場所じゃないけど、たまに顔を出したくなるみたいな。
居心地がいいときも悪い時もあって、ゆるく繋がっていて、誰かの置いて行ったマンガ本とかが転がってるみたいな。
茶が飲める古本屋とかが理想っぽいな。
で、自由に使えるボロいパソコンとwifiが飛んでて、ボロいけど一人用のソファがいくつかあるような感じ。
東京じゃ無理だろうな。

17/06/14 Wed.-2

当たり前の人生をする

どうも母のことを書くと突然血が沸き立ち逆上してしまう。
そして今の生活を感謝する感じになる。いや良いことだがあまりやりたくないなと思った。
今の同居人との生活、人生の方が当たり前になって、あまりこういう感じ方をしなくなるのが最終目標です。

トイレの電気と女(関口良雄『昔日の客』夏葉社)

関口良雄『昔日の客』という本をを読んでいる。古書店を営んでいたひとのエッセイだ。
昔日の客:Amazon.co.jp:本
リンク、うまくはれているだろうか?
厠に入っている最中「もったいない」と妻が電気を消すので、離縁を考えるほど怒ってしまった、という話がでてきた。
実家でも似たようなことがあった。
入っている最中に電気を消されることはさすがになかったけれど、母は「もったいないから」といって電気をつけずにトイレに入っていて、わたしはなにがもったいないかと奇妙に思っていた。
なのに気がつけば、いつの間にかわたしも電気をつけずにトイレに入るようになった。
女は、トイレの電気をもったいないと思ってしまう生き物なのだろうか。
わたしの場合はもったいないから、というより、特に必要ないから、というのが正しいかもしれない。
今の家のトイレは廊下から灯りが入って、夜でも明るさは十分足りている。
逆に男性は「的を狙って撃つ」必要があるから、電気を絶対と思うのかもしれない。
あまりに面白いので、毎日1章ずつ読んでいるが、厠の話は冒頭1ページだけ読んで、あとは明日にとっておく。

若草色の布張りの表紙で、その装丁からてっきり古い書籍だと思っていたら、一度絶版になったものを2010年に復刊したものらしい。
夏葉社という出版社の名前と、褪せたような鮮やかなような若草色のとりあわせが良い。