なんのために書くか

なにか書きなよ、とみんなが言う

わたしは文章を書くのが好きだ。
好きだし、得意だ。
だけれど、自分の文章になんの価値があるかはよくわからない。ただ書くことが好きだ。人に見せようなんておこがましいように思う。
だから、ひとに、なにかに発表しなよ、とか、そういう仕事をしなよ、と言われてもピンとこなかった。
あまりやりたいと思わなかった。

視点

年齢を重ねるうちに、本や漫画のいろいろな作品が自分に新しい視点をあたえてくれることが増えてきた気がする。(10代とかの頃のことは何も思い出せないというのもあるけど。)
昔すでに読んだ作品を読み返しても、さいきんは違って見える。
それが、昔読んだときはわからなくて無駄だった、というよりかは、昔は昔でわたしの血肉になり、今は今でわたしの血肉になっている感じがある。
あと、自分のとこの教授もいってたと思うけど、歳をとると昔読んだ作品しか受け入れられなくなってくる。新しい作品に立ち向かってトライする体力とキャパがなくなるからだと思う。
だから、昔にたくさんの小説や漫画を読んで、自分の中にストックしてきたことは無駄にならなかった。
人との接し方、心の持ち方、同居する人間との間合いの取り方、1ヶ月3万円代での食費の回し方、そういう色々だ。

メディアのこと

テレビをつけるとイヤな気持ちになることが多くなった。
かといって、テレビに対立する概念としてのインターネットもけっこうイヤだ。漫画のバナー広告は過激なシーンばかり取り上げるし、ツイッターは色々な人の意見が目に入って、何が正しいのか、自分がどうしていいのかわからなくなる。
この間、ホモセクシュアルのキャラクターをテレビが笑い者にするのはもうやめなよ、みたいな話が盛り上がった時に、メディアがマイノリティを笑えば、世の中もそうしていいのだと思うようになるのだ、という話があった。

フィクションの役割

それで考えたことなのだけど、みんな、テレビやなにかが扱うフィクションを元に社会的規範を測るのであれば、わたしは、わたしの知ってほしい世界や、こうなってほしいということを文章にしたらいいのかもしれない。
変わってほしい、と思うことや、知ってほしい、こうしてほしい、と思うことを、書いてもいいのかもしれない。
特にフィクションの描く世界は、そういうものであるといいな、と思った。
誰かがそれで新しい視点を持って、いい世界になっていくといい。
そういうものを、いつかかけたらいいな。

わたしは鏡

コミュニケーションの「意味」のこと

ここ1、2週間くらい、またコミュニケーションの「意味」のことを強く意識するようになった。
以前にコミュニケーションの「意味」のことを意識していたのは、渋谷で働いていたころだ。
接客業をしていたときに、すべてのものに意味があって、だけどすべてのものに意味がない、と思いながら働いていて、そのころは人間と接する時にそのことを考えるとうまく対応できていた記憶があった。
だけどその「意味」にまつわるフレーズの記憶だけが残って、いつしかその本当の感覚は忘れてしまっていた。

すべてのものに意味がある

コミュニケーションには意味がある。
(というか、この世のすべてのものには意味がある。)
意味というのは言い換えれば、「本来の目的」「本当の目的」に近い。それは表面にあらわれてこないけれど、色々な形で表面から見て取れることがある。

たとえばどうにもならない難癖をつける人は、別にその問題をどうにかして欲しいわけではない。
怒るだけ怒って人を踏みにじって発散したいだけだ。
そういうときは怒るだけ怒らせつつ、踏みにじりたいように踏みにじらせたように振舞って、抵抗せず、受け流して、煽らず、静かに謝り続けると相手は勝手に勝利を得た気分になって帰っていく。

で、それをどうやって察するかというと、相手を察するのではなくて、状況や目に見えるところから相手に入り込んで、相手になりきってしまうのだ。
相手の表情を見て仕草を見て、服装や持ち物や髪のベタ付き方や、財布や、靴の汚れや、ここに来るまでの動線から、そのすべての意味をとらえて処理して相手になりきる。
そのすべてを一瞬でやって、答えとして出力する。つまり、目の前にいるのは私で、その私がいま求めている行動を自分が取ればいい。
そういうことを私はしていた。
で、また最近その感覚を思い出した。

「その感覚」は怖い

大学卒業して接客業をしていたうち半年間くらい、その感覚はあった。
最初のうちは、人とコミュニケーションを取るのが楽しくなってよかった。正解だ、と思える答えを出せるから。正解だ、と思えるのは、相手がわたしだからだ。
だけど、それは「本当に」相手にとっては正解ではないかもしれない。だから、意味は、あって、無い。
そのうちに目から入った情報を処理して出力するスピードが速くなりすぎて、街ですれ違って目に入ったひとの気持ちが「わかる」ようになりはじめた。
でも、そんなことはありえない。わたしは、そこには無い意味を読み始めているのではないか、と、自分に思った。そうなってきたらそれは病気だ。
それで接客業は一度やめて、半年間くらい事務のアルバイトをしていた。

その時もこの感覚について書こうとして、やはりうまく書けなかった覚えがある。
いまも、こうして書いてはみたけれど、後から読み返して理解できるかはわからない。
こういう感覚を持っていると便利だけど、また病気みたいになっても気持ちが悪い。
かといって、まだこの感覚を再び同じレベルまでもってきているとは思えないけど。

他人のモックを自分のなかに構築する

なんだか難しく書きすぎたけれど、もっと簡単に書き直してみよう。
わたしは自分のために行動できないし、自分の感情を表すことがうまくできない。
だから、いっそまず自分というものを一度空っぽにしてしまう。
コミュニケーションを取るべき人間が目の前に現れたら、その人を自分のなかにデータとしてコピーする。
データのコピーの方法は、その人の振る舞いや見た目、持ち物を目で見ることだ。
目で見たデータは、私の中で、いろいろな社会的な記号、文化的な記号に処理されて、その人を自分のなかに簡単に再構築する。
私は、私の中にコピーされたそのひとのモックみたいなものから、その人が必要としている行動を出力する。
もしそれが成功しなくても、私は傷つかない。導き出したのは私の中の他人のコピーだから。
成功していれば、わたしは、人間とうまくコミュニケーションが取れたな、と思って自己肯定感が上がる。
で、だいたい成功する。
ただ、処理から出力へのスピードが上がりすぎると、それが狂気なのか、賢さなのか自分でもわからなくなって、ちょっと怖くなってくる。

ヒトから求められること

わたしは「ヒトから求められる」感覚なしには存在できない。
自分というものが無いから、他人に求められることでしか自分の存在が証明できない。
逆に言えば、「相手が何を自分に求めているか」というのを、相手になりきって想像して振舞うことがとても楽しい。

人間は光だ。
わたしは鏡だ。なにもなければなにも写らないし、真っ暗ななかにいたら真っ暗なままだ。
他の人がきたら、その光を受けてやっと存在しているようになる。
そして、他人の姿を写し出す。
空っぽには空っぽなりの社会での戦い方があるということだ。

気持ち悪さ

じつはこの感覚を思い出したのは、この間、面接の練習をグループでしたからだ。
面接官の役をしてフィードバックをするとき、自分でも驚くほどスラスラと相手についてどういう印象を受けたか、どういう風に帰ると良さが出るか、という言葉がでてきた。
占い師みたいだった。
それはすごく楽しくて、とても気持ちが悪かった。
これを書いている今も、あの感覚は面白いし自分には必要だし楽しいけれど、書いて見てやっぱりうまく説明しきれない感じがあって気持ちが悪い。
だってこんなのスピリチャルか病気だと思う。
これに頼ればきっとラクだけど、一生演劇をして生きるようなものだ。
そしてその夢がふっとさめてしまったら、それはそれでやっぱり辛いのだ。

笑顔をすると善良な人間になる

頭の中を一度空っぽにして、目の下の筋肉を押し上げて、前歯の上の筋肉を引き上げて歯をむき出しにして、「わたしは芯から善良な人間なのだ」という気持ちで笑ってみる。
そうすると頭の中がそのまま真っ白になって気持ちよくなってこの感覚が戻ってくる。
目の前の人に芯から親切にしたくなる。
接客の仕事では笑顔で「いらっしゃいませ!」というときにこの感覚になっていた。
たこれをやったら、まあ、仕事は決まるだろうな、と、変な安心感がある。この感じがある間に決められるよう、まあ頑張ろう。どうせわたしには波があるのだから。

好きな漫画

となりのヤングジャンプで連載している『しをちゃんとぼく』という漫画が好きだ。
www.tonarinoyj.jp
コレ。
通称「しをちゃん」こと「死を失いし者」と小学生の「ぼく」(顔がもっちゃりしている)の日常系コメディ漫画なのだけど、この漫画の登場人物のそれぞれに自分を投影できる。し、してしまう。

「しをちゃん」のこと

「しをちゃん」は、死なない。死なないので、危険を感じる必要がない。だから、つまづいても転ぶことを防ぐことをするひつようがないので、頭から転ぶ。社会性を持とうという努力があるから、頭から転ぶと脳みそをこぼして迷惑になる…と悩む「しをちゃん」が面白い。
わたしは言語IQというのが平均よりもまあまあ高いそうだ。その代わり、動作IQという身体への出力の能力が平均より少し低い。
だからわたしは、頭ではわかっているのに身体が動かないもどかしさ、社会に馴染みたいのに上手く馴染めないもどかしさみたいなものを、この「しをちゃん」についつい重ねてしまう。

「ちかもとさん」のこと

DIYで新世界の創造に励む「ちかもとさん(力を求めし者さん)」もいい味を出してる。
この人もまた自意識過剰で気弱で良くも悪くも人の顔色を見る人で、かわいそうで可愛い。
わたしはまた、中学生の頃、人と話すのも目を合わせるのも怖くて、自分の顔が気持ち悪くて、マスクして毎日学校に通っていた時期のことを思い出して切ない。
あ〜、わかるわかる!と、思う。

「ぼく」のこと

老成したような子どもの主人公の「ぼく」も、友達いなさそうで好きだ。
落ち着いているね、と言われそうな子だけど、それでもまだ、子どもだというところが描かれているのが良い。わたしもそういう子どもだった。
どのキャラクターにも自分を重ねて読んでいる。誰にも欠けたところがあるのだけど、優しい世界なので楽しい。

フィクションの滋養を受け取れる頃

この間、大学時代の友人と、漫画を読まなくなったという話をしていた。
特に現代日本を舞台にした漫画で描かれるような「ドロドロした」感情、「リアルな」「複雑な」感情、みたいなもの、幼く思えてしまってどうにも読んでられないよね、という話をしていた。
我々は年を取ってしまって、そういうものにかかずらわるリソースがもうない。
あと服ももうフレッドペリーとかを一生懸命買う元気はなくてユニクロでいいやってなってる。
若い頃をサバイブした結果として、あとは生活をやってゆかねばならない。
それだから、フィクションをフィクションとして楽しめるようになった。
だから優しくて、だけど共感できて生きづらさを共有できたような気持ちになるこの作品が好きなのだと思う。

若いつもりが年をとった

まだまだ若いとはいえ、まあ1周目は終わった、と、思う。おかげで色々なものから自由になれた。こんな悟ったような口きくにはまだぜんぜん若いけど、だいぶ楽しい。
今までを振り返ると、もっと良い選択肢はあったかもしれない。
あの時ああしていれば、とか、どうしてあんな無駄な労力を、とか、思うことは多い。
とはいえ、色々あってもとにかく死なずにここまでこれてよかったね〜楽しいね〜と友達とも話していた。
生きづらいけど、今は余生、わたしはしをちゃんにそういう感じを投影して、好きでいるんだろうな〜。
全部読んでるけど作者の方を応援したくて、ようやく単行本を買った。絵も好みだし、この方がRTしている人を追っていくと性癖を煮詰めたみたいな作家さんに辿り着いたりする…。
久しぶりに、漫画読んだり、描いているひとをディグって世界が広がっていて、とても楽しい最近だ。
ウェブ漫画は1巻で途切れちゃうのとか多いけど、今後も頑張ってほしいな〜

しをちゃんとぼく 1 (ヤングジャンプコミックス)

しをちゃんとぼく 1 (ヤングジャンプコミックス)

寝付けない

毎晩、夜が来るたびに同居人をひとつ嫌いになる。
原因は、彼と一緒に寝ることでわたしが寝付けなくなっていることだ。

イビキ

さいきん、同居人のイビキは殊更ひどくなった。
以前はブリーズライトをつけていたらどうにかおさまっていたものの、ここしばらくはどうにもならない。いや、していないよりかはしているほうが、イビキの始まりは遅いような…気がする。
一時期、イビキはほぼおさまったように思えた。ブリーズライトを連用していた時期で、しないでもうるさくなくなったときがあった。
それがさいきんは、深みのあるイビキが一晩中続く。
夜が深くなればなるほど、イビキの深みは増して行く。

狭くなるベッド

イビキだけではない。
同居人の身体の横幅も、さいきん増したように思う。
狭いスペースで身体をタテにして寝るのは決して気楽ではない。
それから、寝ながら抱きしめて来るのは、暑いし苦しいとはいえまだ可愛い。
けれど、暑くなって広げた肘に勢いよく打たれたり、重たい腕を乗せられたりするのはたまらない。
そのゼロ距離状態でイビキをかかれるのだからたまらない。
そのうちに身体に熱が移って、眠気は去って寝付けなくなる。

睡眠とわたし

わたしは、眠気がこないときもあるが、奇跡的に眠気があるときもこれでは寝付けない。
睡眠が足りなかったりうまくいかないことは、わたしにとって致命的だ。たっぷり睡眠を取らないと、機嫌も体調もすべてが崩れる。
夜が来るたびに殺意が沸く。どうしてこんなにイビキは神経を逆なでするのか。
遠くの方を車が走って行くような静かで心地よい音と入れ替わらないものか。
そう思っている間にイビキはどんどん深みを増し、布団は暑くなり、眠気は醒めていく。そこに暑くなった同居人の肘鉄が入る。
本当に、たまったものじゃない。
こんなことの繰り返しなので、布団に入る時間になるのがなんとなく憂鬱だ。

仕事のこと

この問題には、2つの具体的な解決案がある。
・私が仕事に就いて、いまより部屋数の多い場所に引っ越す。
・同居人が痩せて、イビキをかかないようにする。
同居人には、痩せる以外にも課題をいくつか渡してしまっている。まずはそちらを
まあ、わたしが仕事に就くのが妥当だろう。痩せてもイビキをかくケースもあるし。
就職活動は失敗ばかりだ。頑張ってるんだけどなあ…同居人を不安にさせることも多くて、この間は喧嘩の挙句マウスを投げた。早く働きたい。

自分を嫌いになる

夜中にこういうことを一人で考えて眠れなくて自分を嫌いになっていくのが一番いやだ。
夜が来るたびに眠れない自分をひとつ嫌いになる。
同居人をひとつ嫌いになる分は、昼間にひとつ、いや、ふたつぶんくらい取り戻せるからいい。
わたしのことを嫌いになるのは、少しずつ、見えない形で重なっていく。
普通に眠れて普通に動ける、そういう普通のことができない自分のことを嫌いになっていくのは辛い。

同居人のイビキ以外にも、仕事のことを考えるとなかなか夜も眠れない。
睡眠薬をもらったが、それを飲むと眠れても朝起きられない。
それになぜか薬で眠った翌朝の顔は、どこがどうとはいえないのだけどすごく不細工だ。
起きられないわたしのことも、不細工なわたしのことも、わたしは嫌いだ。ふたつ、嫌いになって重なっていく。
かといって寝不足じゃ、昼間は朦朧としているだけだ。
同居人はただ寝ているだけなのに、勝手に寝付けなくてイライラする自分のことも嫌いになる。
わたしはこれ以上わたしのことを、もう嫌いになりたくないよ〜。

つかれた

ああ、早く引っ越したい。
そして、ソファベッドでいいから自分一人で眠れる場所がほしい。
できれば、同居人のスタジオになる部屋は今と違ってドアで区切られているといい。

眠れない。眠りたい。疲れた。参った。

衣替え

秋を乗り越える

秋冬は調子が悪くなる。昔からそうだ。
というか、夏以外はだいたい不調だ。夏だけはカーッと元気なので、夏が終わってまた次の年まで来ない秋の頃がいちばん辛い。

ファッションが苦手

ファッションはいつもわたしにとって悩みのタネだ。
わたしは、ファッションが大好きで、いろいろな洋服を可愛い、着てみたい、と思う。
ただ、服を買う、着る、維持することには、わたしが苦手な「選択」や「判断」が複雑に関係する。

  • 適切な質と金額かどうか
  • 着心地のいいものかどうか(サイズが合い、チクチクしたり寒かったりしないもの)
  • 自分が着ていて気分のいいものかどうか(好みに合う、似合う、年齢や流行に合う)
  • 自分で洗濯して維持できるものかどうか(手洗いやクリーニングは不要か)
  • 部屋の収納に対して適切な量を維持する(買い過ぎではないか)
  • 季節やシチュエーションに合うものかどうか(着るシチュエーションが具体的に存在するか)

思いつくだけでも、買う、維持する、組み合わせる中にこれだけのトピックがある。

例えばわたしは、レースの生地が好きだ。
だけど、レースの生地の服を着るのは苦手だ。なんかスースーして体温調節が難しいし、着ていてしっくりこない。
安いし買ってみるか、と買うと、その着ない服がクローゼットを圧迫する。
透けてるレースのトップスなんて、クラブでぐらいしか着られない。
着てみてもしっくりこないし、デリケートなものだから手洗いがめんどくさい。
こういう訳でそのレース服は古着屋に二束三文に処分されることになる。
これでは採算が合わない。採算が合わない買い物をしたことに落ち込む。
特にメンタルヘルスが不調の時期は、選んだり判断することが難しかった。
だから、服を買うこと、その日の服を選ぶことが、好きなのに適切にできなくて本当に辛かった。

好みの服と着られる服

着られる服と、好みの服は違う。
そのことがわかってから、だいぶ楽になったような気がする。
わたしは体温調節が苦手で、皮膚や身体が過敏だ。
そこがダメだとすべてダメなので、服はまず着心地がよくて冷えなくて汗を吸うことが第一だ。
発達障害の人には、ダメな生地とイイ生地があるという人が多いそうだが、自分もそうだ。)
その中で、洗濯して維持しやすいものを。今持っているものに合わせて着られるものを。デザインの今風で、だけど若過ぎないものを。
まあ、今でも失敗は多い。それに体型がすぐ変わるから困りものだ。
クラブで遊んでいた頃の服は仕事で忙しかった頃にすべて処分してしまった。
遊びにも行けず牧歌的な職場で消耗して、むちゃくちゃ胸の形が出るtシャツとかを持ってるのがなんか辛くなって。

履ける靴

靴の問題も大きい。
靴さえちゃんとしていれば服装はけっこうちゃんと見える。
だけど女の靴は難しい。これも発達のせいなのか、なんなんなのか、大概の靴が合わない。
なので自然とスニーカーやサンダルばかり履くようになるんだけど、それではどうしてもカジュアルな服装になる。
さいきんどうにか他よりは長く履けるパンプスをみつけたけど、やっぱり1日歩くと相当疲れる。
HARUTAのローファーはなかなか良いんだけどちょっと買ったサイズが小さかったかもしれない。
靴は特に1日履かないと合うものかどうかわからない部分があるので、選ぶのが難しい。
とにかく、足元問題も少しずつ改善はしている。

女の服は難しい

秋は服装に困る季節だ。
服装で混乱するとすぐ調子を崩す。なので先手を打っていくつか服を買っておいた。
歩きやすそうなブーツやパンプスを出しているブランドをネットでみつけたので、Amazonで安く買うべきか悩む。お金を使い過ぎだろうか。
悩んでいるのはこれとこれ。

でもブーツは足首まであるやつがいいなあ。
もうすぐ衣替えだ。クローゼットの中の革ジャンの季節ももうすぐだろう。
この秋は早めに衣替えの準備をして、服装のことで混乱しないようにしたい。

ToDoの渋滞

やりたいこと、やるべきことが渋滞気味だ。
結婚のこと、結婚式に向けてのこと、仕事のこと、家計の管理、学校の勉強、部屋の片付け、自転車の譲渡、押入れの再整備、本の処分、秋冬の洋服を揃えること、カバンや靴が欲しいこと、ぬか漬けする野菜の調達、明日の献立、読みたい本…
ひとつひとつ分解したら 大したことはないのだろうけど、「仕事のこと」という、いちばん重要で、行動の結果でしか選択の正しさが測れない、また行動自体にエネルギーを使うパズルが立ちふさがって 渋滞している。
(朝になってツイッターで見かけたこれだ。ほんとに↓)
https://twitter.com/kaityo256/status/907194697411575813

動かなきゃ負ける

前にも書いたかもしれない。
同居人が高校時代まで続けていた剣道の話をきいていたときに、心に残った話がある。
「剣道の試合は、視界も狭いしむちゃくちゃ怖いけど自分から動かなきゃ確実に負ける」と同居人は話していた。
それをきいて、この人は見ていてヤキモキするほど臆病なのに、そうした経験をしていたから、大学受験や就職といった人生の局面で、自己実現のための行動を取ることが出来たんだ、と、思った。
だって、自分から行動できないと、確実に負けるんだもん。
ここでミソなのは彼が、「めちゃくちゃ怖い」とも語っていることだ。
この話が説教くさくならないのは、「恐怖は無い」でもなく「行動すれば必ず勝てる」でもなく、「恐怖心を克服できる俺はスゴイ」でもない。何するべき、とも言わない。
今日の自分への落とし前、と、怖くても動かなきゃ負ける、というのは、生活の中で時々思い出す。

不安の因数分解

物事をゆっくり考える時間が少しだけ欲しい。
絡まった不安を解体し、一つ一つのくだらない、具体的な事柄に分解してしまいたい。
小さな複数の不安が床下の埃のように集まってこんがらがって、綿ぼこりのような大きい不安になるのだ。そうなると、正体はみえづらい。
人間は、よく分からない物事が怖いのだ。だから不安は因数分解する。

要タスク管理

だけどつい二人でいると楽しくて、食事を作ったり家事をしたり家計簿をつけたり日記を書いたり映画を見たり話したり、楽しいことがたくさんあって、ついそれをやってしまってる。
外でやればいいのかもしれないけどどうしても人の目が気になって捗らない。家に帰ればコーヒー代もタダだし。
毎日生きてるだけで、楽しい。それはいいことだけど、もうちょっとピリッとしないとな。
毎日やること、臨時の仕事、中期的に繰り返すこと、長期的な事業、仕事でも生活でもタスク管理を上手にしたい。

「オ・ト・シ・マ・エ」

今日の自分にオトシマエ

さいきん心がけている、というか、心のなかで繰り返す言葉がある。
「今日の自分にオトシマエをつける」というのが、ソレだ。
大したことではなくて、その日使った食器はその晩のうちに洗ってしまうとか、
ちょっとだけ着て脱いで床の上に丸めた洋服が気になっているなら片付けてしまうとか、そういうことだ。
「あー皿が、明日でいいかな、ああでも、今日の自分にオトシマエをつけるんだった」と、頭のなかで呟いて、大概のことはそれでチャッチャと片付けられる。なんでかはわからないけど不思議だ。

できないときには、理由がある

それから、「自分にオトシマエをつける」という目標だと、他人に腹が立たなくていい。
同居人が食べたお皿の後片付けなんかしていて、本人はのびのび音楽やってたりすると、腹が立っちゃう時がある。
自分がやろうとしているのが「自分へのオトシマエ」だと思えば、自分で自分の仁義のためにやることになるので納得できる。
仁義っていうのは台所は清潔にしておきたいとか、洗濯は乾いたら畳んでしまいたいとか、そういう仁義だけど。わたしは相手のためにしてやってるのに!とか、なんでやってくれないんだろう!とか、そういう邪な気持ちが入って来ると、ムカムカしてできなくなったりする。

でも、全部完璧にやろうとはしないことがコツだ。
というか、その日のうちにオトシマエがつけられないときは、気分か体調に問題があるか、片付けたりするときのシステムに問題がある。
そういう日は寝る。
「オトシマエ」はつかないときはつかない。そういう日はしょうがない。

要件定義

「三つ子の魂百まで」とはいうけど、もう三つ子じゃないので色々なことをすぐに忘れてしまう。
「オトシマエ」の心がけもすぐ忘れてしまう気がしてる。

同居人の家族は、真っ直ぐ筋の通った人たちだ。
「家族を大切にする・その人にとって最良の道を応援する」というのを守っているひとたちだと思う。
「Yの将来や、相手のご家族のことを考えると不安で夜も眠れないけど、それでも応援してるから」と、素直に口に出せる信頼は、わたしの出会ったことのないものだ。
それも言葉だけじゃなく、本当にできる限りで応援しようと、色々と具体的な援助の話もしてくれた。本当にありがたいことだ。

あちらのご家族としては、本当であれば同居人にはわたしを養えるくらいにならないと、という考えはあるようだ。
ただ、わたしとしては、Yが自分一人を食わせていければよくて、私は私でやる。だけども、お互いに足りないところは二人で頑張ろう、支え合おう、そういう気持ちでいる、とお話しした。わかってもらえたと思う。
自分たちのわからないやり方や生活をする子供を見つめるのは、いかに不安だろう。だけど、それでも応援してくれる。

ポーズ

うちの親は、何を考えているのかわからないけど特に口を出してこない。
本当に何を考えているのかわからない。最近ではかつての勢いはすっかり鳴りを潜めて、大人しくなってしまっている。
そういえば昔から、大切な時に本当に芯から心配したり支えようとはしないで、表面でちゃらちゃらと口出ししたり、応援しているようなポーズを取るのはうちの親の得意技だった。
「困ったときはいつでも相談しろよ!」というので、必要な物を買うためにお金が欲しい、とか、病院に行きたい、とか打ち明けると、高いとか、あなたはだらしないからすぐお金を使ってしまうとか、ぐちぐち言いながらお金だけを出すのがうちの親だ。
何も応援しないで、あの学校はやめろとか、この会社は受けるなとか、こういう行動はするなとか、そういうことを言うのがうちの親だ。
自分のポーズのために、自分の気持ちの満足のために動くのが、特に母の動き方だ。
これまでに芯からわたしの背中を押してくれたことがあっただろうか。少なくとも思い出せない。
昔は台所に立つ母の背後でよくフライパンや包丁を握りしめていた。
早く死んで欲しいと思うことはなくなったし、これからも笑顔で家族付き合いはするけれど、一生許すことはできないと思う。たぶん。

許さない、忘れない、繰り返さない

ただ、両親のこれまでの態度は彼らなりの最善だったのかもしれない。さいきんそう思う。
今までの彼らの行動は、自分の人生で学んできた世界での正しさをわたしに選ばせようとする彼らなりの努力だったのだろうと思える。
いい学校に入ってお金持ちの子弟と付き合い、教養を養い、その教養や立場でいい会社に入ってガンガン稼ぎ、ガンガン使う。
それが彼らの「成功した自分たちの」「正しい」人生だったのだろう。
だけど時代は変わる。正しさに汎用性はない。わたしは特に変わり種だった。同じ正しさを示すのではなくて、わたしそのものをよく見つめて導く必要があった。
その努力をしなかった彼らを、一生許すことはないと思う。
どんな状況があったとしても、背景があったとしても、思惑があったとしても、優しくなっても、私が苦しかったことを一生忘れない。ようにする。
そうしないときっといつか自分の子供におなじことをしてしまうから。
忘れたくないと思う。

わたしでよかった

ただ、同居人のご両親が、同居人が私を養えるようになってほしいと考えていることは私をすこし驚かせた。
反対に、同居人を私が養うぐらいの気持ちでいることには本当にびっくりされたと思う。
私としては、東京で音楽をやって結婚して暮らしているようなご兄弟がいるから、生活のことは成り立てばいいくらいに思っているのだろうと勝手に考えていた。自分の周りはそういう人も多いし。
相手のご両親がなぜ、求職中の、わたしのようないい加減な女との結婚を後押しするのか少し不思議だった。けども、まあ、このことで、わたしが同居人と結婚するつもりなのは、本当にご両親にとっても僥倖なのだろうと感じた。
イヤラシイ言い方になるけれど、好き合っているのはもちろんとして、わたしは同居人の音楽活動に理解があって、全然お金がなくても気にしていなくて、まあ自活をしていた経験もあって、仲良く暮らせていて、見た目も(今は)変じゃないし、大学も出ているし、家族も社会的にちゃんとしていて申し分ない。
まあなかなかこういう娘さんはいないだろう。というか選んで出会うのも難しいだろう。自分で言うのは変だけど。
何より、本当に歓迎されているのがいつもわかるから不安はないのだけど。だから私はとても嬉しい。
私はこれまでずっと私でいて、私の人生を重ねてきて良かった。
それに、人生で一度くらい男を扶養に入れてみたいもんだ。就職活動、また頑張ろう。

実感のない喪中

今年中に入籍しようか、とか言って居たけど、よく考えたら今年は喪中だった。
うちのおばあちゃんは、わたしが中学生くらいの頃からかなりボケてしまっていたから、私の中では、随分前に亡くなったような気持ちでいた。
だから不思議な感じだし、忘れてしまっていた。お葬式もインフルエンザで欠席したし。おばあちゃん、ごめん。
この間おばあちゃんがわたしのために積み立てていた少しの貯金を受け取って、ボケる前のおばあちゃんのことを思い出せた。
庭のクチナシの白い花を手折って、洗面所で洗ってくれたけど普通に虫がついてた時のこととか、着ていた服とか、いつもしてた前掛けとか、リビングの座布団の色とか。
おじいちゃんもおばあちゃんも、もう居なくて寂しい。
私が生まれて、おばあちゃんがこの口座を、色々手続きをして開いてくれたのだろうと想像したら、生きていて元気なおばあちゃんのことが思い出されて寂しくなった。
だけどおばあちゃんはずっと前に亡くなったような気持ちで居たから、やっぱり今年が喪中だというのにはやっぱり実感がない。