2016.8.11 Thu. 実家

情緒が不安定だ。

仕事終わりに実家へ帰った。実家は都心から約1時間の新興住宅地にある。もっと言うとその約1時間でゆける最寄り駅から徒歩だと45分、時刻通りに走らないバスに乗って向かえば待ち時間も入れて30分くらいの時間がかかる。職場を定時に出て2時間かかって実家に着いた。よくこの距離を通っていたものだと思う。
実家は相変わらず信じられないほど汚い。今回帰ったら、犬が2頭、猫が7頭いた。保護動物を預かるボランティアを引き受けているので、犬猫の数はいつも帰る度違う。動物はかわいいが毛とフケと排泄物のかけらと爪のかけらと猫トイレの砂がまんべんなく家中に散らかっていて耐え難い。母親は保護動物を受け入れることを生きがいだと言うけれど、自分のキャパシティの中で、手の届く場所にある動物や人間へのケアに自分の全てを尽くすべきだとわたしは思っている。母は、「自分はいいことをしている」「あんな可愛い犬や猫がいるのを一時的にでも自分のものにしたい」、そういう欲望を満たしているだけだ。なぜそういう欲望があるかというと、自分の手の届くところにある人間や動物に満足行かないからだ。なぜ満足行かないかというと、彼女が支援すべき人間の挫折を受け入れ難く支援し受け入れることは自分の子供が障害者だと認めることになるからだ。私のことだけど。子猫を預かるのも良いがその前に自分の家くらい管理してくれと思う。それができないならするべきじゃない。うつ状態に陥って古本や古着を買い集めて部屋の床を埋め尽くして布団で腐っていた私にいつもあなたが言っていたことじゃ無いか。管理できないなら買うな。増やすな。管理できる数だけの物を持つようにと。
ただそういう自分と母親の確執はこれでもマシになった。家を出て、離れたところに住む人のことにそこまで自分がリソースを割かなくなったことがかなり大きい。
今回の帰省では、近々発達障害の診断を受けてみようと思っているので、母子手帳や成績表などの資料があれば集めておいてくれない?と母に頼んでいた。突然話せばまた反発するに決まっているからだ。
案の定「成績表はあなたが就職したときにもういらないから捨てたんじゃない!!」とメールが返ってきて、わたしはまた落ち込んだ。些細な話でも、こちらが何かを尋ねただけでも、「わたしは悪くない、あなたに責任がある!」という構文で答えが返ってくると、毎回落ち込む。私が悪いのだろうか、と、思う。私は悪くないとしたら母はなぜわたしにこういう言い方をするのだろう。母は私が、私のようなものが生まれてしまったことを後悔しているに違いない。わたしはわたしを産んだ人間に拒絶されている。死ぬべきだ。25才になっても未だにそう思う。小学生くらいまでの間はよく、悲しくなると母に抱き締めてもらっていた、母はトドとかアザラシとかジャバザハットみたいな体型で埋もれると気持ちが良かった。いつからこうなってしまったのだろう。いや人間関係のことをうまく母に話せなくて、だけれど気がついてほしくて初めて手首切った13才のとき台所のコンロの前でだけど。母は私に「みっともない、はやく治しなさい、もうすぐおじいちゃんと食事するのだってあるんだから、昔からそういうことをする子はわたしの周りにもいただけどみんな弱い子だった!」と早口で高い声で言った、びっくりしたのだろうとは思うけど私は、自分はみっともなくて弱くてダメな子どもで母には理解してもらえないのだと思った。フライパンを持って料理する母の後ろに立ってふりおろそうか何度も迷った日々があった。ただもう大人なのでわたしが彼女を赦さない限り解決はないのだろうなと思う。
なにかを問いかけたりすると「わたしは悪くない、あなたがそうしたからだ」という答えが返ってくるのはけっこう気持ちを削られる。そしてそういう言葉で育てられた私はそういう言葉で考え、話してしまうことがあって自分が嫌になる。新しい言葉を覚えたい。ひとに優しく居心地よくさせる言葉を。
話を戻すと母子手帳はもらえなかった。きちんと事前に必要そうな資料で見つかる者があれば、と一覧をだしたにも関わらず、「だってそんなものが必要だなんて思わないじゃない!」と言われた。でも高校時代の成績表は一応用意されていたので、少し関係は進歩したのかもしれない。結局それは資料として役にたたなさそうだったけど。
私は19才頃から精神科に通っていた。大学の臨床心理士でカウンセラーの先生に勧められたのだった。私はずっと治療を受けたかった。薬やなんらかの加療で自分がよくなるのであればそうしたい、と、ずっと母に訴え続けたが、そんなところへ通う必要はない!とにべもなく言われていたし、自分はうつ状態で髪を洗うのも困難な半ひきこもりの高校、大学生で、物事を順序立てて調べて戦略的にプレゼンするなどできなかった。大学のカウンセラーの先生はとても合う人で、よく自分の訴えを聞いてくれた。勧められた精神科の先生はあまり話を聞いてくれず薬の副作用もひどく、それから今考えれば親との関係こそがすべての根源だったので病状は改善しないどころか悪化し続けた。薬代が高価だから精神障害者自立支援法で継続治療が必要であることの申請を出して保険料を1割にしよう、と親に提案したがそんなことをしたら記録に残って就職に響く!と受け入れてもらえなかった。親が薬代が高いとこぼしながら数千円をくれるのが申し訳なく悲しかった。1年ほど説得して自立支援を使って薬代を安くした。その後自殺未遂を繰り返すなどしたが22才頃劇的に病状が改善して薬を飲むのも勝手にやめた。すべてそれきりだ。だけれどそれは自分というひとつの時間軸のなかにある過去だ。
で、そういう訳で私は過去にそこまで病状が悪化し、役所や医療機関などにすでに加療情報も記録としてはあるはずなのに、また「そういうことをすると記録に残って後でそうしたことを公にしたくないときに云々…」と受診へ反発する言葉がでてきてうんざりした。「私は生きるのが苦しいし、発達障害は疑わしいと思っていたけど必要がなければ受診するつもりはなかったが今の職場へ入ってわかったことだが自分は専門的な治療や支援なしに社会生活することは難しい。そのことが社会的に明らかになれば支援が受けられる可能性もある。わたしはただ名前が欲しいのではなくて、ただ生きて行きたい、そのために必要そうなものを利用したいだけだ」と話した。納得せざるを得ない論理をぶつけられると母親は黙る。黙ることで納得しない。今回も返事は返ってこなかった。いやだなあ。
 
実家に帰って夕食の場で話したことを書いただけでこの長さになってしまった。
病的に恨んでいるといえばそう見える文章の長さだ。
もうこれ以上書くのはやめる、母との確執に触れ始めれば、その文章は『失われた時間を求めて』ぐらいの長さになってしまう。私にとってこのめちゃくちゃな人生を振り返り分析することは、自分の人生の「失われた時を求め」る作業になる。それを一度きちんと整理しないとまた毎日母親への恨みつらみを思うことになるとはわかっているけど生活する者には時間がない。
 
本当に書きたかったことは、最近自分はある面では順調だけれど、他のほとんどの面では、自分が疎外され忌避され、またつまんないやつとして見られていて、嘘をつかれたりバカにされたり恨まれたりしているんじゃないか、ということが気になっているという話だった。構成を考えずに書いたらたどり着けなかった。ある面で楽しければ楽しいほど、不安が増すようなところがある。ある面で順調なことは、まともな複数人のグループとわたしが接触する機会が生じるということでもあって、自分は本当に複数人の人間といり混じることで精神的負荷が大きいのと、ある面のよいことの反面で自分の立ち振る舞いのアホさや自意識にまつわる問題がまた出てきたという。あとそういうことに関連して職場の老婆が手放しにひとをしあわせなお嬢様認定してくるので黙れ脳天気なのはあなたで俺はゲットーインターネットで育った誇り高いベッドタウンのメンヘラなんだ、と言いたいとかそういう。
今度こそこのあたりでやめる。言葉はいつも私の中を渦巻いているが、順序とか構成とかそういうものが無いんだ。