2016.12.3 Sat. 視線の中でわたしになる

トライアル同棲を始めて2週間が経った。

わたしは活発になったと思う。無力感に苛まれることが少なくなった。ただ、一人の休日を過ごしたりするときの感じは変わらない。今日は何かをしようと思って、いろいろ考えて家事をしたり洗濯をしていると、もう夕暮れ近くなっていて疲れてしまって昼寝をして1日が終わってしまうあの感じ。

他人の視線の中にしか、自分は存在できないと感じる。同居人の視線の中で、わたしになるわたしがいる。観測する相手によってわたしは変わる。そして観測している相手はわたしからみればわたしの鏡でもある。瞳の中に小さく映る自分がわたしをみている。この論理から行けば、わたしは一生他人とちゃんと、心から関われることはないのだろうと思う。さみしいけれど、本当にそう思う。それは交際相手に対してもそうで、でも必要とあればわたしたちは互いに離反し合うこともあるだろうね、というところまで話ができる人だから、よかったのだと思う。私の心はどこへ行ってしまったのだろう。

最近、久しぶりに小説を買って読み始めた。芥川賞をとった「コンビニ人間」だ。書店員時代に毎日レジから「火花」が平積みされているのを見ていた、この本もしばらくあんな風に平積みされるんだろう。

店員には「店員」というフォーマットがあり、どんな人間も等しく売り場に立てば「店員」という存在になるということの安心感について、共感した。わたしが百貨店の書店員時代に感じていたのはまさにそういうことだ。全てが合理性で割り切られて、均一な世界。目指すべき基準が明確な世界。わたしもそういうものが好きだ。

むかし、知人が「親なるもの断崖」の作者が描いているスーパーのレジバイトを描いたエッセイ漫画について、「女性の人権を描くような漫画を描いている人でも、労働の場では日本的レジバイトに奴隷根性でうっとりとしてしまうのが残念だ」と飲みの席で話していて興味を持って読んでみたことがある。わたしはその漫画にはけっこう同調できたし、労働の喜びというか奴隷根性というより、そこにある違うなにかに働くものは安心し、うっとりとできるのだと思うのだけど、その答えがやっと今わかった気がする。たぶん、書店員時代のわたしや、そのレジバイトのエッセイ漫画で描かれたあの労働への陶酔感というのは、自分のやるべきことの範囲が明確に決まっていて、理想とされる形が決まっていて、やってはいけないことも決まっているあの安心感だったのではないかと。あ、でも、それが奴隷根性なのか?

自分のようにADHD的性質や、そのほかの自閉傾向のある人の特徴として、「対人関係が苦手」というのがあるけれど、そうした人間が小売の店員などをやると、結構いい店員になってしまうというパターンがあって、「コンビニ人間」はその論理を描いている。人間を時給で使い、合理が全てで、やることなすことが規定されていて、規定されていない部分にも一貫した論理のある世界は、わたしたちに優しい。

店員でなくなったわたしは、気むずかしくて嫌味で性格が悪くて神経質な人間になってしまったような気がしている。だけれど、それは今の職場の人たちの視線の中にいてそうなっているだけだと信じたい。

最近、自分は本当に母に似ているというか、母もこんな気持ちだったのだろうかと思うことが多い。母はいつも自分の話ばかりしているのに、どういう人間かは未だによく掴めない。そういうところがそっくりだ。帰省したとき、父が「母といると疲れる。Aはずっとこんな思いをしてたんだねえ。俺はわからなかったよ」と言っていたのが印象深い。母は「良い母親」「良い親子」「良い家族」を、誰かの視線の中でいつも演じようとしていた。母の料理は美味しく、掃除は行き届いていて、家族はみんないい身なりをしていて、家の中はきれいに飾り付けられたりしている、そういう風に「見られたい」というのが彼女の埋まらない欲望なんじゃないか。

そして、私については、思い通りにならないことに苛立ちつつも、自分がこんなところで腐っていることをごまかすためのサンドバッグとしてマウントを取り続け、私の自信をへし折ってきたのだと思う。その上でさらに、自分は過去にはやりたいことを見つけて自ら積極的に動いて勝ち取ったのに、どうしてこの人にはそういうのがないんだろう!と怒りつづけていたんだろう。わたしだって好きなこと、やりたいことは小さな頃からたくさんあった。あったけれど、否定されて、否定されて、あなたにはなにもできることなどない、どうせ失敗する、あなたにはできない、といい続けられて、もう何に挑戦するのも恐ろしくて仕方なくなって、なにもできなくなってしまった。最近は少しできるようになって、自分の人生を取り戻してきた。そういう言葉に感化されやすい素養もあったし、家が遠くて常に寝不足だったことも大きかった。今更自分の人生を取り戻しても、失われた時間が戻らないことを虚しく思ってしまう。これからがあるのにね。

実家で家事をして、母は休日の私のような気持ちでいるのかもしれない。疲れた、休みたい、でもあれもこれも綺麗にして準備しておかなければ、わたしはどうしてこんなことをしているのだろう、今日もどこにも行けなかった、あれもできなかった。少し想像できる。

母と似ている自分に気がつく度、私は母の轍を踏まないようにしてゆかなければ、と、思う。まずは、過剰に洗濯や家事に勤しんで疲れて怒ったりしないようにしよう。部屋が汚れていても死ぬわけじゃない。洗濯や家事がされていること、食事が準備されていることが当たり前になってしまうと褒められもしないかもしれない。余裕のあるときだけやる、それから、家族に協力をお願いする、あと、協力してもらえなかったりしても怒らない。私は完璧じゃないし、相手も完璧じゃない。そういう態度を貫かなければ。

ここ2週間は正直すこし張り切りすぎた。自分の生活が第一でやってゆこう、せっかく最高の交際相手と同居しだしたのだから。