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2016.12.29 Thu. わたしこういう人だった

自分がこういう人間だったということを、目の当たりにした日だった。

同居人が地元に帰った。ばたばたしてきちんと挨拶もできないまま、大きな荷物はすでに移動したあとで、ちょっと残った荷物をまとめるのと、処分の手はずをつけようとして前の部屋に帰った。

部屋に行ってみると思った以上に荷物は多く、部屋は寒く、よくわからなくなって慌てているうちに夜の10時になってしまった。

そういえば同居人と同居するまではずっとこんな毎日だった。毎日よくわからなくなって、なにも終わらなくて徒労感に追われて、途中で2時間くらい茫然とする時間があって、どうにか一日を終わらせる感じ。

どうにか部屋には帰ってきたけれど、いまもほとんど椅子から立ち上がれないまま3時間経ってしまった。同居人がいたらさっさと風呂にはいってさっぱりして部屋の片付けをして布団に潜り込んでいるはずだ、1時間半で。それも間に、15回くらいの抱擁の時間を挟んで。

私は同居人がいなければなにもできない。それは、なにかを全部やってもらわないと生きて行けない、という意味ではなくて、私は私のために生きられないということだ。

私は、私の人生をようやく取り戻して、私のためにこの先のことを選ぶことができる、だけれど、未だにそうやったことがないから、正直戸惑っているし、こういった生活のことはやはりまだ自分自身のためだけに行うことは難しい。昨夜は飲んで帰ってから同居人のためにブリ大根を仕込んでいたけれど、今日のわたしはカップ焼きそばにお湯を注いで菓子パンを食べるのが精一杯だった。だけれど、気持ちだけは人一倍きちんとしてたいと思っていて苦しむことになる。

同居人といるときわたしは幸せだ。自分が真っ当な人間のように思える、というか、そのことを信じて疑わなくてよくなる。そんなことは考えない。

昔から思っていることだが、信頼できる人といるとき私は見た目上とても「人間らしく」なる。「人間らしく」なっているとき、わたしの心はなくなっている。触られると身体の摂理で、水分の位置の移動によって、ヒュッと葉をすくませるオジギソウのように、無心に反応する感情のない幸福な生き物になれる。

もちろんそこにも感情はある、気持ちはある、そして全て嘘じゃない、だけれどこうしてパソコンに向かって一人で文章を書いているときのわたしの「こころ」と、ひとといるときに表面に出てくる「こころ」は、全く違う層にあるもののように思える。

誰しもそういうものは持っているんだろう、というか、今はそう思いたい。昔はよくわからなかった。うまく言えないけれど、図書館にも本屋にも、あんなにたくさんの不気味で陰鬱な純文学、たとえば川端や太宰や志賀直哉やなんでも並んで世の中に存在してみんな少しは読んでいるはずなのに、どうして生活の中ではそうした「こころ」を持っているようにみえないのだろう、といつも思っていた。みんな「こころ」は隠している、信頼している人にも。隠しているというより、社会になじみながらそうした「こころ」を見せるのは難しいものなのだろう。そして人や社会とのやりとりで使わなくなった「こころ」は少しずつどこかへ消えてしまう。だけれど、その方がきっといい。

どうやったらわたしはわたしの真っ当なこころを取り戻して、ひとりでも自分のために生きられるんだろう?

同居人といるときはこんなことは考えなくていい。でも、ひとりでもこんなことを考えなくなるともっといいんだけど。一人が寂しい、という人は、こういう気持ちなのかもしれない。大概の人と一緒にいるより一人でいる方が楽で、だけれど一人でいるとこうやって思い悩む羽目になる。同居人といると幸福でこんなこと考えなくていい。

わたしのこころなんてはやくどこかへいってしまえ、まがい物のこころなんて忘れ去られて思い出されもしないところへ遠ざけて切り捨ててしまえ、そして同居人と幸せになりたい。

同居人といるとなんとなく幸せになれそうだし。

わたしのめんどくさいこころなんてはやくなくなって、ただわたしはわたしとして生きられますように。