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2017.03.29 Wed 無職でも好き だからちゃんとする

生活していて苛立つことが増えた。何度言っても、濡れたタオルが洗濯カゴに入ってる。わたしばかりが洗い物や洗濯をして、休みの日を潰しているように思う。Yはわたしと暮らしだしてからわたしに甘えてだらしなくなった。なんだか子育てをしているみたいで、自分のやりたいことが全然できない。腰が痛くて、わたしだってやりたい作業があるのに、座れる場所がないからできない。だけど、忙しそうでY本人には言えない。わたしがやればいいや。だけど、大事にしてくれるんじゃなかったの?好きなんじゃないの?


考えていて、ハッと突然きがついた。この考え、客観的にみて全然スジが通ってない。
まず、好きなこと、大事にすることは、生活をちゃんとすること(社会的にちゃんとする、家事をちゃんとする)こととイコールじゃない。逆に言えば、ちゃんとしてないから、わたしを大事にしてない、という訳じゃない。濡れたタオルをそのまま洗濯カゴにいれて他の洗濯物が生臭くなったって、やらないには理由があるし、わたしのことが大事でない訳でもない。
次に、やりたいことがあるのにできないのは、作業環境の問題だ。わたしが作業する場所がなくてゴロゴロしたり暇そうにしてるからYが暇になると構いに来るだけで、明らかに忙しそうなら邪魔もしないだろう。腰が痛くならない椅子とデスクがあれば解決できる。デスクを置くためにカラーボックスを廃止して本棚を買いたい。
最後に、負担が大きいなら遠慮せずY本人に相談すればいい。それから、仕事が雑でも信頼して任せればいい。人を信じて、胸を打ち明けることだ。わたしはその悩みのトピックが洗濯物でも洗い物でもなかなかそれができない。
わたしは、「ちゃんとしている」ことが愛情であり、相手を幸せにするために必要なこと、だと思ってしまう。それは認知の歪みだ。
愛情や、好きということは、相手が生きていて幸せなこと、できれば自己実現していることを願い応援し支えることだ。その結果、社会的に「ちゃんとする」、また、社会的にちゃんとすることによって応援が成り立つ、「ちゃんとする」は結果でしかない。
社会的に「ちゃんと」してるひとが、ヨレヨレのシャツを着ている割合は、そうでない場合よりも高いだろう。
だけど、収入に見合わないクリーニング代を払ってシャツだけちゃんとさせててもその人は幸せか?という話だ。シャツがちゃんとしてることは、イコール社会的にちゃんとしてることじゃない。
ちゃんとしてなくても、無職でも、好きでいいし、好きは変わらない。好きだから働いて一緒に暮らすことを守りたいけど。
人にはいろんな考えややり方があるから、相手を信頼して相談したり分担したりすればいい。
認知の歪みがまたひとつ発見できた。

 

 

思えば母はいつも家事に追われて、手伝いたくても細かく文句ざかりで、子どものわたしの意見は絶対に聞かず、いつも、わたしのことを誰も愛してくれない大事にしてくれないと怒っていた。父はあまり家にいなかった。
母も大変だったんだな、と、思う。結婚して幸せになってエリートの子供を作ろう!と、キャリアの道を捨てて子供を作ったら、父は家事なんか1ミリもやらない上にいつも仕事で家におらず、子供は風変わり、赤坂で「先鋭的なバイリンガルOL」として国際的に働いていた過去とは全然違う世界にひとり取り残されて、そのイメージが捨てられなくて、プライドはエベレストより高いままだから助けなんて求められなかった。
(完璧な)自分の子供だから、なんでも完璧にできるかと思ったけどそんなことはなくて、わたしが子供の頃はもっと凄かった、といつもわたしは言われていた。でも、子供だからできないのは当たり前で、母にもそういうときはあったはずなんだ。
わたしが自立してゆこうとすると母はいつも怒った。理由もなく出かけるなんて許されなかった。ヒールを履くことも、新しい服を買うことも、やりたいことを探すことも。だけど自分の娘だから、社会的には「ちゃんと」してほしかった。そこに歪みがあった。
子供の期間は、やりたいことや向いていることをじっくり探す期間だ。そして、それを生業にしたり、心の支えにしてその後の人生を生きて行く。わたしはそれができなかった。正確には、なにをしても拒まれた。わたしが考えるということを。
だけど空っぽ人間には空っぽ人間の生き方があって、それはまた今度書くけれど、どうにかここまで人間らしさを取り戻せた。
母も辛かったんだろう、でも知ったこっちゃない、楽に死ねるとは思わないでほしい。わたしは子供を作るのも怖い。わたしが母のようになってしまうことが。
これは人に読ませる文章ではなく、頭を整理する文章でした。