17/04/13 Thu.T2

好きだと思っていたひとが醜く変わってしまうのは辛い体験だ。

というより、変わったのは相手ではなくわたしの目だ。

インスタグラムのおすすめユーザー欄に、7年ぐらい好きだったひとのアカウントが出てきた。

この人のことを拒んでフォローを外して自分のアカウントに鍵をかけた頃から、この人のインスタグラムはずっと見ていない。鍵をかけてもフォロワーのほかの誰かに聞いたのか、投稿内容を把握されていて、人間不信になったりしていたことも思い出した。

拒んでも惹かれて惹かれてなんとなく引き寄せられる不思議なひとだったから拒んで拒んで、遊んで、働いて、ようやく魅力も感じなくなったし、会いたいと思わなくなった。

それで、自分がいかに歪んだ認知のなかにいたか気がついた。10代からのわたしは、親も友人も信用できず、安心して心の内を話せる、相手をしてくれる依存先がこの人しかいなかった。それに、この人と関係するためにコストをかけすぎたから、ついつい「もしかしたらまだ上手くいくんじゃないか」と思ってしまっていたということに気がついた。

新しい音楽のまわりで健全な(人を貶めない、程度に健全な)友人、知人が増え、また、就職して、働く友人たちと対等に、フリーターの負い目もなく学生時代のことは忘れて、毎日教室で顔を付き合わせるのでなく会えるようになって、嫌いだったが職場のひとたちにも馴染み、客観性が身につくにつれ、なんか薄汚いオカッパおじさんにどうしてこんなにこだわってきたのかとしか思えなくなっていった。

悲しいから、各種SNSでもゆるく繋がりつつ、相手のアカウントは表示されないように設定している。

今日何気なくそのひとのインスタグラムアカウントをみると、相変わらず自撮りと、奇抜な服と、サブカル著名人との写真が並んでいて、表情の作り方も加工も変わっていなかった。わたしがむかし献上した変な色のジャケットもまだ着ている。髪型もほぼ変わらない。1枚なんて、3年くらい前にみた写真と全く同じ構図と服で、古い写真だなあと懐かしくみたけれど、コメントによれば最近撮った写真のようだった。

なんでこの奇妙なオカッパのおじさんが好きだったんだろ。

よく、「君は僕のこと好きじゃないでしょ」と言われていた。そうなんだと思う。選択肢がなかったから依存していただけだ。相手もそれがわかって、だけど選択肢がなかったから、承認欲求があったから、わたしの相手をやめなかったんだろう。二人ともかわいそうだ。

かつては「そういう」女の子とのことで悪名高いひとだった(と思う)けれど、さいきんはずいぶん丸くなったと聞く。

見た目は変わらないし自撮りも相変わらずだけど、家族や姪っ子の写真が増えた。

わたしは15才を過ぎた頃から23才か24才までには死ぬつもりでいた。自分はロクな大人にはならないし、自力で生きて行けないだろうし、老いて醜くもなる、世間に迷惑をかけるみっともないおばさんになる前に、惨めに生き延び続けなければならなくなる前に死のうと頑張っていた。本当はみんなのように生きたいけど、わたしにはできないから。でも実際、わたしは「みんなのように」はなれなかったけどそれなりに生きている。

死にそびれてしまって、初めて、寿命まで生きるにはどうしたらいいかを最近考えている。なにより、この先もYとずっと生きてゆきたい。これは全部余生だ。

あの時のあのひとの年齢になって、今のわたしの方が自立した人間だな、と、思う。

だけどいま、筋肉がササミみたいにつるつるしてるような男子高校生や大学生の若い男の子に猛烈にアタックされたら、やっぱり気をそそられたりするのかな?そこはあまり自信がない。

相手も自分も変わった。相手の見た目が変わらず、それを見るわたしの目が、感じ方が変わったのはともかく、相手の見た目も体型も7年近くあまり変わらないのは、よく考えたらそれはそれですごいことだ。もう愛も憎しみも依存もない、あっちはあっちで元気に頑張ってほしい。

ベッキ一も、わたしのように孤独だったのかな。

25年以上生きるとやっとこういう「時間の流れ(による気持ちの変化)」や「世の中の構造」みたいなものが掴めてきて、最近そういうものをよく感じる。

だから、運良く24までに死にそびれて良かった。この境地も、なかなか楽しいものだ。