17/05/05 stress

ベタを飼い始めて1年以上が経った。
ベタの寿命は2年程度だとインターネットでみて、成体になってからうちに来ているということは、寿命は近いのかもしれないと思っていた。2月や3月ごろは動きも緩慢だった。水槽の底に沈んで眠っているようにみえることが多かった。
せめて居心地よくしてやろうと、底砂を買いにアクアリウムショップに行って色々と相談してみた。水質維持のこと、流木の入れ方、ベタの寿命など。するとその中で店員さんが言うには、2年より長く生きることだって多いという。
「大事なのはストレスで、よくフレアリングをさせてやったり、他のオスを見せたり、張り合いがある環境にするのが大切ですよ」と、店員の男のひとは言った。
なるほど、確かにしばらくフレアリングもしていなかった。それから毎日1分程度鏡を見せてフレアリングをさせると、少しずつ元気が戻ってきたように見えた。

ストレスは一概にマイナスに働くだけではない。
アクアリウムショップできいたようなプラスに働くストレスは、「外的な刺激」とでも解釈した方が正しい気がする。
(『ストレス』という単語にはマイナスのイメージがまとわりつきすぎている。)
アプリ版の大辞林で引くと、『ストレス』の意味はこうだ。

①精神的緊張・心労・寒冷・感染などごく普通にみられる刺激(ストレッサー)が原因で引き起こされる生体機能の変化。一般には、精神的・肉体的に負担となる刺激や状況をいう。「ーを解消する」
②強弱アクセントで、強めの部分。強勢。
③物体に加えられる圧力。
④外的圧力に対する弾性体内部の反発力。

どちらかというと『ストレス』は、刺激を受けた結果をいうものだが、刺激そのものについても一般には『ストレス』といいならわしているみたいだ。正しくは刺激そのものは『ストレッサー』のことなのだろう。

さて、わたしには今、「(外的刺激としての)ストレス」がない。
仕事をしていないから、外に出ない。お金がないから、あまり外にもでない。眠りたいときに眠り、義務も明日の予定もない。
水槽のなかで一人でぼんやり泳いで、餌を与えられているベタと同じだ。
わたしにも、毎日すこしの適度なフレアリングが必要だ。

最近、夜によく眠れない。寝付こうとすると、いろいろな思いが頭を巡ってしまう。
眠りに落ちるあわいのところが、いつも恐ろしい。恐ろしい幻覚や、過去の出来事や、終わっていない家事や、自分の人生のむなしさだ。
それでも仕事で疲れきっていたときは眠れていた。
まるで、ひきこもっていた頃のようだ。最悪だ。あの頃に戻りたくはない。

同居人は、人間関係に苦しんだわたしを見て、「フリーランスになったら」とか「詩人になったら」とか言う。だけど、そうじゃない。
人間関係に苦しみ疲れるのは、もちろん嫌だ。
だけど、自分で自分の仕事を管理するような人生を選んだら?わたしは、食えるようになる前にまた自己肯定感を失って、精神から身体を、身体から精神を壊すだろう。
わたしには仕事が必要だ。
毎日出かけて行って、人前で働くことが必要だ。身だしなみを整えて、健康を保って、緊張感を持って人間と関わることが。そういえば、そうだった。
ただ、そうするとわたしのキャパは終わってしまうかもしれない。
キャパが終わった分、気晴らししたりできる時間とお金、食事を外食にしたりするお金が必要だ。
それだけの休日とお金が得られる仕事に就きたいから、仕事を辞めたんだった。

わたしには、やりたいことなんてない。
ただできるだけ、世間に恥ずかしくないように生きていたいという気持ちだけが強い。
家でダラダラとしているなんて、世間に申し訳が立たない気がして、眠ってしまう。または、家の中で家事をしていると疲れてキャパが終わってしまって、眠ってしまう。そういう自分が嫌で、「嫌だ」と思う気持ちでキャパが終わって、また眠ってしまう。
小さな子供のころは、やりたいことや興味のあることがたくさんあった。だけど、失敗したり、興味を持ったこと自体を叱責されたりしたことが多すぎた。
他にも色々と、わたしがわたしであることを苦しいと思い、親を恨む原因はあるけれど、ここにはまだ書けない。惨めすぎるからだ。それは性的なことだ。きっと、同居人には理解ができないだろう。素っ頓狂なことを言われたらまた心を閉ざさないといけないかもしれない。それは嫌だ。
やりたいことなんてない。本当なら何もしたくない。積極的に死にたいとは考えなくなっただけ、褒めて欲しい。わたしはわたしでいることが嫌だ。
だから社会に必要とされなければならない。

まだ生きることがよくわからない。人のことを信用もできない。
一生懸命話して、わかってもらえなかったら悲しい。
実際わたしはヘンでわかってもらえなかったことが多かった。
来週ぐらいまで死ぬことは先延ばしにしようと思えるようになったのが2014年で、
今後も引き続き生きて行こうと思ったのが最近だ。

わたしは、ただ、もう少しYと生きていきたい。もっとずっと生きていきたい。
やりたいことないの?なにかしないの?と言われると、全くそんな願望がないので、叱られているようで悲しくなってしまう。存在してはいけないような気がしてきて苦しくなってしまう。
やりたいとしたら、こうして机に向かって考えたりすることだけど、すぐに気が散って何にも集中できない。夜に走るのが大好きだけど、危ないからだめだよと言われてる。ラジオをオープンエアで適当に素早くかけて机に向かいたいけど、作業をしてるとためらうしもっといい音で聴きなよと言われる。いい音でききたいんじゃなくて、音のシャワーで他のことをシャットダウンしたい。わかってもらえない、と思うと、頑固になってしまう。
目的にいつも到達できない。やり遂げられない。机にそもそもたどり着けない。
やっぱり長く生きて行くのは難しいのだろうか、と思ってしまう。
人に迷惑をかけて生きたりしたくないなあと思う。
わたしのような娘でお父さんとお母さんに悪いなあ、と思う。
代替案を出せばいいのに、いまはそれができない。イライラしている。セックスもない。自分がふがいなくて相手に迷惑なんじゃないかと思うと、それを認めたくなくて攻撃的になる。
前提条件が間違っているとはわかってるんだけど。やることがないんだ。

そんなわけあるか、という話だけど、部屋の水槽のなかにずっといると、真剣にそう思うんだよ。
どうしてこんな風になってしまったんだ、と考えるよりも、外に出て気を紛らわしている方が早い。この先のことを考え込むより働いた方が早い。考え込むとこうなることはわかっている。
はやく働きたい。5月8日まではゴールデンウィークでなにも動かないから動けない。外の人混みも辛い。アルバイトしろっていわれても、キャパを終わらせない程度のアルバイトじゃ生活費に足りない。
特定の音が辛い。光も、辛い時がある。履いている靴下の縫い目が気になって具合が悪くなる日もある。辛いことを避けるためには完璧に自分を守らなければいけない。自分で自分を守ろうとすると脳のキャパが死ぬ。これがワガママなのか、障害なのか、わたしにはわからない。目先のことから逃げているだけなのかもしれない。
このループから逃げるためには金と休日を手に入れて、自分を守る行動を外部に金で委託して気晴らしと安静を得ないといけない。

言い訳ばかりで、ワガママだなと思う。わたしは、言い訳じゃなくて、恐れと、普通には理解されない理由が多いから、一生懸命説明しているんだけど、いつもメンヘラ以外にはワガママとしか言われたことがない。普通の人は、そんなこと我慢してるんだよって。だから、わたしは、甘えていて、ワガママなんだろう。本当にそうなんだろうか、わからない。
自立できない、甘えていて、ワガママなやつは、いけないことだから、死ねばいいとしか思えない。わたしは自分を死ねばいいなんて思えない。

考え方がねじれている。ねじれを少しずつ解くために書いた。どこがねじれて癒着しているのか、どこが改善点なのか、まだ今なら改められるはずだ。

ここまで書いて思うのは、わたしは、マズローの五段階欲求説で言えば、「所属と愛の欲求」が強いけども、そもそも日々の身体のコンディションにいつも振り回されていると、まだ「安全の欲求」だって満たせていないんだろう。自分のコンディションを保つことで、いつも精一杯になってしまう。そこから上は全部中途半端だ。

自己実現理論 - Wikipedia


わたしはわたしを、オールオッケーと思いたいよ。足るを知るというか。大丈夫、って思いたい。
もう10年もこんな考えをウロウロしている。だけど堂々巡りじゃない。思える時間はかなり多くなってきているはずだ。