14/10/05 とおくのせかいのわるいひとたち

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けっこう、自分は泣き虫なのかもしれない。
感情の鈍麻が解けてきてからというもの、けっこうよく泣いてしまう。運動会で勝った負けたと泣く女の子たちの気持ちがわからないから、自分は冷たい人間なのかもしれないとティーンエイジャーのころには思っていた。でもそういう訳じゃないみたいだ。

自分の幼馴染はずっと働いていない。小学生から高校一年生までは同じ学校へ通っていて、高校も同じクラスだったけれど、それも来たのはガイダンスの日と入学式の日だけだったかと思う。確か通信制高校を出て大学は行かなかったのだっただろうか。
思春期を迎えたころから前髪を長くして、その隙間からすこしだけ覗く顔にうっすらと化粧しているのも見た。
彼の母親も、彼の父親と離婚してからというもの不安定だと母から聞く。薬や更年期障害で太ったり痩せたりしているらしい、子供からみても若くて、そして綺麗なお母さんだった。
自分たちは幼馴染だから、ときどき連絡をとりあって、数年に一度くらいは会って食事をしたりする。
彼に久々に連絡を取った。いまも働くことなく、なにか学び舎に通うでもなく過ごしていると。たださいきんは生きているのも悪くなく思える、と。大丈夫、働かないで生きていられる間はそう生きていていいし、そうできなくなったら行政の支援を受ければいいだけだよ、と、自分は言った。
その話を家族の食卓で母親にも話す。働いてはいないらしいけど、元気にしているようだ、と。親御さんがお金あるから良いけど…と母が言うので、彼に話したのと同じことを自分は言った。そうして生きていられる間はそうして生きて、だめになったら行政の支援を受ければいいのだ、と、生きているだけでいいのだから。
「そういうひとには御嶽山で死んでもらおう」
そう、話をきいていた父親が突然に言った。
わたしは一度、聞こえなかったふりをした。
父は普通の人だ。すこし裕福な家庭に生まれて、女の子とドライブを楽しむような青春時代を経て、大学を出て就職した会社に数十年勤めている。頭がすこし固いところがあって時々いらつくけど、かわいげのある父親でわたしは父親のことがとても好きだ。
そういう普通の人が、特に悪意もなくこうしたことを口にする現場に立ち会ってしまって、驚いて、ショックを受けて、声も出なかった。
母が「不謹慎よ」とだけいって、自分は黙って食事を食べた。血の気が引き、口の中は渇いて味がしなかった。
「お肉美味しい?」と父がきいてきたので、わたしは「さっきのようなことを、特に悪い人でもなく、普通の、お父さんのようなひとがさっきのようなことを言うのだと思うとわたしは辛くて悲しくて味がしない。それにあれは、わたしの幼馴染の話なんだ」と、息を吐くように早口で言って、牛肉を口の中でもぐつかせながらそのまま泣いてしまった。

(なんらかの理由があっても)働けない人間が生きていることは悪いことで、死ぬべきだし、行政の助けを受けて生きるようなことは恥だ、と、考えるひとがいるということ。
そういうひとが、どこか別の信じられない価値観で育てられた人でとんでもない悪人だったりするのではなく、それが自分を育て同じ食卓に座っている父親だということ。
自分の、両親も顔を見知った幼馴染について、父親がそう言い放ったということ。
重ねて、人死にのあった悲惨な事故を軽々しくそうしてくちにしたこと。
母が注意したのはたぶん最後に挙げたことだけだということ。
すべてショックだった。
もしかしたらこれまで、殆どそれに近い状態にあった自分のこともそう思ってたの?
大好きな父親が?

すこし前に付き合っていたひとは精神障害を持っていて、ふた月に一度年金をもらって暮らしていた。優しいひとだった、とても頭が良くて、話していていつも楽しかった。わたしの知らない演劇や音楽の話をたくさんしてくれて、未だによく覚えているのは部屋に飾ってあった唐十郎風の又三郎のポスターに書いてあった文句だ。
「あたしは、あのこの胸に、このこの胸に実を結ぶ風の落とし物。月光町にいたこともあれば、宇都宮のアゲ屋にいたこともある。あのこの胸に、このこの胸にガラスのマントを着てくるかと思うと、髪ふり乱して駆けてくることもあるんだ。あ丶、あたしは、あたしは、いろんな町を歩きすぎた。風を喰ってて、いろんな胸に抱かれすぎた。おまえは、初めて会った時、「風の又三郎」さんですねって言ったっけ。そうだ、そう呼ばれるまで、僕は−−あたしは「風の又三郎」であることを忘れてた。月は中天に、男だてらのあたしを見かけて、あんたが、「風の又三郎さん」と呼んでくれなければ、あたしは栃木くんだりの流れ女。何故呼んだ、「風の又三郎」と? あんたが呼んであたしが応えた。話を合わせた。只、それだけのことじゃないか。コロッケだってバラの刺青だって、ちょっと胸かきゃ、ホンノリ浮かぶ血のかゆさ。どうだい、分かったかい、月夜のお坊っちゃま。あたしをどうしてくれるんだい。岩波文庫をしまうのかい? それとも読みつづけるのか、はっきりしろい! おまえが呼ばなければ、あたしは栃木くんだりのメシタキ女さ!!」(唐版風の又三郎/岩波書店

自分の青春時代は長い間、指先ひとつ動かすのさえ苦しいほどの鬱状態に支配されていて、毎日時間を飲み込むように過ごし息をすることも苦痛のように思える時間が生活の殆どだった。大学を卒業する年には文章が塊にしかみえず、参考文献も読めず、卒業論文が書けずに人生二度目の(病院に運ばれる程度の)自殺未遂をして留年した。
仕事など到底無理で、一時は障害者認定を受けることも視野に入れていた。いまも、正規雇用での就職はしていない。断薬をして、すこしずつそうした気分から抜け出して、どうにか社会へ復帰しようとしている。
ちかごろ生きることは苦しくないし、なかなか楽しいことも多い。健常な人間はこんな世界を生きていたのか、と、思う。音や景色をうるさいと思うことも少なくなった、世界の大きな情報量をそのまま受け容れられる体力がついて、そうなってくると世の中って面白く美しく楽しい。それでも疲れた時や月経の前などはひどく落ち込んで元のようになってしまう。いつかまた元の状態へ戻ってしまって、行政の支援を受けるようなことはあるかもしれない。だからいまのアルバイトは厚生年金に加入しているところを選んだ(国民年金でなく厚生年金払ってると障害者年金の額がちょっと違うらしい。詳しくわからないんだけど)。
ただ、ただただ、生きているということは罪なのか?
鬱状態の強かった頃、自分は死んだ方がいい人間だと思ってずっと生きてきた。喉元を過ぎたそういう気分はもうあまり思い出せない。醜くみっともない自分は外へ出てもいけないし、ひとに愛されてもそれは相手がなにかを勘違いしているだけだし、愚かで何もできず、働くことも学業をまともに修めることもできず、両親の投資はすべて無駄にしてしまって、そういう自分は生きていてはいけない。いつもそう思っていたということは覚えている。
駄目かもしれないけど、生きていてもいい。自分で自分を養うところまでまだ難しいけれど、少し稼いであとは親の脛をかじっても生きていていい。ただただ生きていていい、良いときと悪いときは必ずある。悪いときは必ず来るけど、良いときも必ず来る。だから生きていていい。楽しいことはそこらに転がってる。自分はひとに優しくもできるし、いい人間だ。生きていていい。近頃はそう考えている。
料理も洗濯も裁縫も掃除も、近頃は出来るようになった。昔よりも身綺麗になったし、陽気な人間になってきた(たぶん元来結構陽気な人間だったのだろう)。
だからもうあんな気持ちはわからない。
だけど、「行政の助けを得なければ生きてゆけないなどということは恥だ、死んでしまえばいい」そういうことを発言する人間はどこか遠くの世界の人間だと思っていた。
普通のおじさんから、そういう発言が出てくる。そして、それは極悪人などではなくて、自分の父親であったりする。
母だってそうだ。
中学生で手首を切った自分に、母親は、「みっともない、早く治しなさい」と言った。
母親は海外で子供時代を過ごし、由緒あるキリスト教の女子校で教育を受け、国際的に活動するリベラルな機関の海外支部で働いていたような人間だ。人間は皆平等に生きる権利があり、貧しいひとには助けが必要だ、というようなことを広める仕事をしていた人間だ。だけれど「専門的な職業に就くひと以外、高卒は人間ではない」といった主旨の発言をしたりする。自分の母親を「正しい」人間だと思っていた自分はそのダブルスタンダードが受け入れられず、気が狂ってしまった。そうだった。
正しいひとなどいない。
(たとえば障害者がすべて良い人間/悪い人間とは限らないし、健常者がすべて良い/悪い人間だと断じることもできない。等しく生きているだけだ)
完全な悪人がいたらコテンパンにやっつけられるのにな。
悪い人、というのも、いない。あたりまえだけど。

それを考えると辛くて悲しくてまた泣いてしまった。
自分はやはり泣き虫だと思う。