寄り添って

生きていくライセンス

23才から先、自分が生きていくと考えたことがなかった。23才までに死んでしまおうと思っていたから。
でも、その約束の23才を過ぎて3年、わたしはまだ生きている。それどころか、これから先もずっと生きてゆきたいと思っている。
だけれど、これまで、死のうと思って生きてきた人間が急に方針転換をして、生きていくために生きていくのは難しい。考えたこともなかった大仕事だ。

いま、わたしがてらいなく生きてゆきたいと言えるのは、同居人のおかげだ。愉快でときどきうるさいこのひとと、これから先もずっとずっと生きてゆきたい。同居人といれば、わたしは生きるために生きることができる。恥とか、外聞とか、見てくれとか、そういう今まで気にしてきたことを気にしないで、わたしがわたしとして生きていくライセンスをくれる。
お互いに自立し、尊重しあって、これからも長く生きてゆきたい。

エッセイが面白い

寄り添って老後 (新潮文庫)

寄り添って老後 (新潮文庫)

酔って帰った夜、古本屋の100円の箱の一番上にあったこの本をふっと買った。発行されたのは私が生まれたころだ。
自分の祖母よりずっと年上のひとの話を聞ける機会を得たような気持ちで読み終えた。
さいきんはエッセイの類いが面白くて仕方ない。わたしがこれまでなげうってきた、生きること、生き続けることに必要なヒントを、いろいろな人生や生活のありようから学ぶことができる気がしている。

「生まれて四半世紀を過ぎて、ようやく人生のスタートラインに立った気持ちです。」
この間の仕事の面接のときに、ふっとこういう言葉が出た。
死ぬつもりだった23才でようやく生まれなおして、早回しで幼年期から思春期をやりなおして、今ようやく自立した人間になれる道をみつけた気がする。

味噌汁の味

著者が親から言い聞かせられていたという「お前がどうしてもしたいことは、していいよ。ただ、自分で責任を持つんだよ」という言葉は、自立し、お互いを大切にする同居人の家の人たちを彷彿とさせる。
わたしはいつでも、危ないからやってはいけないとか、それこれは外聞がわるいからやめろとか、そういうことを言われて育ってきた。
この人は「どうしてもしたいことはしてもいいが、他人様に迷惑はかけず、自分の責任でやること」としつけられてきたという。「世が世なら我が家は…」とかいうのもよく口に出す人がいるが、世は移り変わるもので、なかなかもとには戻らないから、そうした「型」にこだわるでなくそれぞれ「わが家の暮らし」「一緒に暮らすひと」を大切に…といったスタンスが好ましい。
「夫婦それぞれが違う家で育った以上、味噌汁の味の好みが違うのは当たり前のこと(中略)ふたりだけの味噌汁の味を作るのが大事」
この一文がいちばんいい。

老いの予習

老いていく身体のこと、億劫になる日々のいろいろ、死を思いながら寄り添う毎日のこと、「もったいない」と思うことと「切れ離れ」をよくすること、困ったときは助け合っても詮索はしない下町流の人付き合いのこと、どれもとても面白く愉快だった。愉快に老いるための予習をした気持ちだ。
なにを読んでも、見栄を張って欲張りなうちの家族とはまるで正反対だった。時代も一周して、経済成長がつっかえた後につつましく生きようとするわたしだから、父母よりも曾祖母の世代のこのひとに共感するのだろう。
自分の子どもや孫たちが生まれるとして、彼らの生きる時代はわたしたちの時代とはまた違うのだろう。そのときは、自分たちのやり方に執着するでなく、彼らの話をよく聞けるおばあさんになっているといいな。

仕事を辞めて、本が読める精神状態が戻ってきて楽しい。本はわたしをどこにでも連れて行ってくれるし、曾祖母のような年のひとともお話しさせてくれる。
わたしもこのひとのように、同居人と寄り添っておいしい食事を小さく食べて、長生きしたい。