善く生きる

気がつくのはむずかしい

シャンプーを変えてから肌の調子が良い。
前のシャンプーはフケや痒み対策がPRされた商品なので使っていたけれど、合わなかったようだ。
午後になると頭皮が香ばしくなって、黒いカーデガンを羽織るとフケが目立って、憂鬱だった。
アトピー気質で冬にフケが目立つことはあっても、夏にはなかったことなので、加齢のせいかとすこし落ち込んだ。
顎のラインから首にかけてのニキビも人生でいちばんひどく、これが(ニキビでなく)吹き出物か…と落ち込んだ。
ここさいきん化粧水を変えたりビタミンを飲んだり悪戦苦闘していたけれど、シャンプーを変えたら全部改善してしまった。
生活にはいろいろな要素があるし、自分の問題とその原因に気がつくのは難しい。

(さらに同居人のつかっている牛乳石鹸で顔を洗うようにしはじめてからはもっと良くなった。
 その途端に広告が炎上しだしたけども…。
 インターネット上の意見をみると、普通に堅実でいい製品なのに!という意見ばかりだ。そうだそうだ!
 感情をインターネット上で増幅させたくないので、CMはみてない。)

続、パソコン・iPhone問題

母からのパソコン絡みの連絡がいよいよ激しくなったので、急遽実家に日帰りで数時間帰った。
母の訴えを詳しくきいてみると、母が大きく恐れているのは、これまで撮りためた犬やら猫やらの写真が消えることだった。
iPhoneは差し込み口が故障して充電できなくなって慌てて買い換えたものの、アドレスしか移動できず、前に飼っていた犬が死ぬ直前の写真が消える!と、母はたいへんに混乱したらしい。

他人のおばさん

いろいろ事情をきいたが、そんなに混乱するなら、母ができる範囲でも講じられる対策はいろいろあっただろうに…とは思ったが、たかだか犬の写真で狼狽する母をみて、パソコンに弱いけどプライドが高い精神不安定な60代の他人のおばさんとしか思えなくなった。
わたしは、他人のおばさんに辛く当たるような人間ではない。
それで、たいへんだったね、たいへんだったね、と、話をきいて、それから、大したことないから非正規の業者を探して差し口を直してもらえば大丈夫だよ、と元気づけて来た。
母という人の気持ちに寄り添った。口先で。接客業と同じだ。わたしは、本当の心がそこにない方が、芯から優しい(ようにみえる)微笑みや言葉がつくれる人間だ。母は最後、初めてわたしの前で涙ぐんだ。

あの人はただパソコンに弱い他人のおばさんだ。かわいそうだから、気持ちに寄り添ってあげよう。
そう思ったらひとつ肩の荷がおりた。
ある意味ではようやく、母を自立した他人だと認められることができたのかもしれない。
母に認められたいとか、母に優しくされたいとか、母なんだからこうしてほしかったとか、そういう思いから一歩離れられた気がする。
それにしても、母の狼狽ぶりは大変なものだった。
なにかと依存しがちな精神の弱いひとなのだと思う。だってわたしの母親なのだから。

上から見るか横から見るか

そうやって一歩離れて母を見てみると、このひと自身が自分の気持ちを塗りつぶして隠して歪んでしまったのだろうな、と、感じた。わかってはいたが、生育環境も考えると、仕方がないのかな、と思うようになった。
親との問題もあったのかもしれない。祖母はわたしが生まれる前に亡くなっているし、祖父は孫のわたしには好々爺でしかないので、過去のことを母が語らない限り知ることはできないけれど。
母はいつも、自分がいかに輝かしい人生を歩んで来たか、素晴らしい人間か、とわたしに語ってきた。不自然なほどに。
人間は、触れられたくないことについては饒舌になる。
もし、過去のことを母が自分の苦しみや我慢の視点からいま語り直してくれるなら、それを聞いて見たい。大変な苦労や苦しみがあったはずだ。だけど、還暦をすぎた母が自分の人生を異なる物語として語り直すことは難しいだろう。
それはここまで築き上げて来たプライドとアイデンティティを失うことと同じだからだ。
人生も社会も、どこに視点を置くかでまったく違う見え方やストーリーが生じる。

たゆまぬ努力

全然関係ないけど、最近読んだ『クッキングパパ』と沢村貞子さんの『私の浅草』は、どちらも、過去の時代の常識と、その移り変わりを考えさせられる作品だった。
過去の時代というのは、つい、ひとところにとどまって完成していたかのように感じてしまうけれど、明治生まれの浅草の長屋で布団を縫ったり長唄を習ったりして育ったひとが晩年はテレビをみて海辺のリゾートマンションで余生を送っているのは、時代の流れがあるからだ。
クッキングパパ』では、九州男児のパパは、少なくとも3巻まで読んだ限りでは、機会があればどんどん料理を作るのに、それは奥さんや部下の女の子の手柄にしている。
男子厨房に立ち入らず、という考え方が85年頃はまだあったのだ。会社で大量のあて名書きで残業するなんて話もあった。飽くまでどちらもフィクションだけど。
仕事はできるが家事のできない娘を恥じ、男は仕事、女は家事と育てられたものだが…という義父に、パパは「お義父さんたちの時代は、それがいちばん二人の力が出せる形だったんでしょう。僕らには今のやり方がいちばんいいんですよ」と言う。すごい。
そんなパパも、wikipediaを読むと、130巻を超えた現在は料理もオープンだし、ちゃんとスマホも使うらしい。
時代は確かに移り変わるのだ。

誰しもが弛まぬ努力によって、より善い生き方を目指してきた(たぶん)。
父も母も、正しかったかはわからないが、そうだったのだ(たぶん)。
わたしたちも、これからもずっとその努力を重ねてゆくのだろう。
人生も四半世紀を過ぎて、まだまだたくさん知ることがある。
無限大の未来から自由になって、自分の身の丈がわかったいまが、いちばん楽しい。