なんのために書くか

なにか書きなよ、とみんなが言う

わたしは文章を書くのが好きだ。
好きだし、得意だ。
だけれど、自分の文章になんの価値があるかはよくわからない。ただ書くことが好きだ。人に見せようなんておこがましいように思う。
だから、ひとに、なにかに発表しなよ、とか、そういう仕事をしなよ、と言われてもピンとこなかった。
あまりやりたいと思わなかった。

視点

年齢を重ねるうちに、本や漫画のいろいろな作品が自分に新しい視点をあたえてくれることが増えてきた気がする。(10代とかの頃のことは何も思い出せないというのもあるけど。)
昔すでに読んだ作品を読み返しても、さいきんは違って見える。
それが、昔読んだときはわからなくて無駄だった、というよりかは、昔は昔でわたしの血肉になり、今は今でわたしの血肉になっている感じがある。
あと、自分のとこの教授もいってたと思うけど、歳をとると昔読んだ作品しか受け入れられなくなってくる。新しい作品に立ち向かってトライする体力とキャパがなくなるからだと思う。
だから、昔にたくさんの小説や漫画を読んで、自分の中にストックしてきたことは無駄にならなかった。
人との接し方、心の持ち方、同居する人間との間合いの取り方、1ヶ月3万円代での食費の回し方、そういう色々だ。

メディアのこと

テレビをつけるとイヤな気持ちになることが多くなった。
かといって、テレビに対立する概念としてのインターネットもけっこうイヤだ。漫画のバナー広告は過激なシーンばかり取り上げるし、ツイッターは色々な人の意見が目に入って、何が正しいのか、自分がどうしていいのかわからなくなる。
この間、ホモセクシュアルのキャラクターをテレビが笑い者にするのはもうやめなよ、みたいな話が盛り上がった時に、メディアがマイノリティを笑えば、世の中もそうしていいのだと思うようになるのだ、という話があった。

フィクションの役割

それで考えたことなのだけど、みんな、テレビやなにかが扱うフィクションを元に社会的規範を測るのであれば、わたしは、わたしの知ってほしい世界や、こうなってほしいということを文章にしたらいいのかもしれない。
変わってほしい、と思うことや、知ってほしい、こうしてほしい、と思うことを、書いてもいいのかもしれない。
特にフィクションの描く世界は、そういうものであるといいな、と思った。
誰かがそれで新しい視点を持って、いい世界になっていくといい。
そういうものを、いつかかけたらいいな。