頑張り屋の中学生だった

発達障害の診断材料

母親から受け取ったむかしのわたしの資料を受け取った。
だいぶ前に、「発達障害の診断を受けるのに必要になるかもしれないから、母子手帳など発育などの資料がほしい」と依頼していたのだが、母子手帳などない!と拒否されて、でも数年経って申し訳程度に中高生以降の資料が出てきた。

母を信じたい

母は、認めたくない事実に直面すると、まず荒唐無稽な拒否をカマしてみて、その後下手にでてきたり、微妙にトンチンカンにダウングレードしたリターンをして誤魔化してくる。今回は発達の診断というワードだ。
わたしはやっぱり、母は、本当は理性的で社会常識がとてもあって、神様のようになんでも知っているひとだ、という母自身の主張を信じたい気持ちがある。
今度こそ、母の「本来の」「マトモ」な面、「親らしい」振る舞いみたいなものに出会えるんじゃないか、と、いつもほんの少し期待する。だって、本当は母は「マトモないい母親」のはずだし、本人はそのつもりだ。
それでシッカリ毎回裏切られて、こういうトンチンカンな振る舞いをされて、ちょっと傷つく。
私は母を信じたい、と、いつもいつも思っている。
だけどもう遅くて、もし「親らしく」振る舞われたとしても、またどこかで裏切られると思ってビクビクしてしまうんだろうな。

先生のコメント

成績などの資料は、いろいろな時期、いろいろな種類の資料がぐちゃぐちゃに、ファイルにとりあえず挟んであった。
あんなに、ファイリングをちゃんとしろ、できないなんてだらしがない、といっていた母なのに。
おおまかに分類して、ひとつひとつを読んだ。
成績について先生がコメントをくれている紙というのがあった。
体育の先生は、結構わたしのことを買っていたみたいで、いつも、苦手なのに真面目に逃げずによく頑張ってる!とコメントをくれていた。
当時すごく嫌いだった英語の教師は、平均くらいの成績をとっているのに、わたしが怠けていると思ってるようだった。
美術や書道の先生は、作品をすごく褒めてくれていた。

セルフイメージの中高生時代

中学2年以降からの成績は惨々たるものだった、と、わたしは今まで思っていた。
手首を切ったり、髪を抜いたり、鏡が見られなくなったり、人としゃべれなくなったのもこの頃からだ。
わたしは落ちこぼれで怠け者で、もう人生には取り返しがつかないのだと思っていた。
母にも、怠け者だとかだらしないだとか、成績が低すぎるとずっと言われていた。だからそうだと思っていた。

客観的な中高生時代

大人になって見てみると、そんなことなかった。
わたしはあの長時間通学を耐えながら、よく勉強して、苦手な数学以外は平均を下回ることは少なかった。
成績のいい教科もいくつかは必ずあったし、本当によく頑張っていた。
いまだって机に座ると眠ってしまうのに、本当に本当によく頑張っていたのだと思った。
ただ、小学校までや、中学に入った頃に、すこし頭が良すぎただけだった。
クラスで2番や4番をとっていた成績が、平均ぐらいまで下がったので、周りも驚いたんだろう。
小学校と中学校では、勉強の量も質も違う。特に座学で話を聞いて理解するものが増える。
それがわたしには難しかったのかもしれない。家もものすごく遠くなった。中学に入ると必要になる社会性も大きく変わってくる。
わたしはとにかくがむしゃらに頑張っていた。傍目には居眠りばかりしていた、不真面目な落ちこぼれだったかもしれないけど。

SOSを出していた

母にはとにかく叱られて怒られていた。
あなたは運動はできないのだから、勉強だけでも頑張りなさい!と言われたこともあった。
だらしがない、とか、信じられない、とか、心が弱い、とか、努力が足りない、とか、
わたしが郊外の家に引っ越して朝早く起きるのが辛いと言っても、だいたい、母の体験談で打ち返されて、
母が学生の頃は自分で弁当も作ったのにあなたは何もできない、とか、母が学生の頃はひどい満員電車にも耐えた、とか、
同じようにできないあなたは怠けていると言われた。
母と父が選んだこの家に文句があるのか!とも、よく怒鳴られていた。
そうじゃなくて、わたしは、ただ、睡眠が思うように取れなくて体が辛い、というシンプルな話をしていただけだった。
疲れていて、大丈夫?と気遣って欲しいだけだった。
SOSを何度も発していた。誰も受信してくれる人はいなかった。
わたしがボロボロになりきったころ、母は、どうしてなにも話してくれなかったの!?わたしはいつも待っていたのに!と芝居掛かった口調でいって私を抱きしめたことがあった。
それは4、5年、タイミングが遅かったんだった。わたしは払いのける気力も、文句を言う気力もなかった。
ただ、何度母に話そうとしても、近所の犬の話だとか、他人の娘の話だとかをずっと脈絡を無視して被せてきてわたしの口を塞いでいたじゃないか、と、思ったことは覚えている。
むしろ私は、母以外の大人に話すべきだったのだ。だけど、信用できるひとはいなかった。
それに、自分のお母さんが敵だなんて、その頃はやっぱりどうしても認められなかった。

わたしは汚かった

夏休みや長期の休みはひたすら眠り続けて歯を磨く気力も髪を洗う気力もなかった。
母には、汚ギャル、とか、臭い、だらしない、とかいって、笑われたり蔑まれたりしていた。
前髪を切れ、だらしない、と言われても、お金がなくて、お金が欲しいというと、自分の小遣いから出せと言われて、わたしはそんなボロボロで部屋も当然散らかっていたので、部屋が汚いから小遣いは出さない、と言われて、わたしはずっとだらしなくて汚くて小遣いをもらう資格もなく前髪が長いままだった。床には洋服や本が海のように敷き詰められていた。
時々祖父がくれるお金で髪を切った。
わたしは心も体もただ疲れ果てていて、自転車も乗れず、お金もなく、近所に友達もいたことのない子どもだったから、逃げ出す先もわからないだけだった。
布団の中ではてなダイアリー2ちゃんねるを巡回するのだけが、家族や学校以外との繋がりだった。
いま、こうやって書いて見ると、ネグレクトや虐待に近いな、と思う。

わたしはずっと頑張っていた

今回はシンプルに短く書こう、と、一瞬は思ったのだけど、やっぱりこころのデトックスのために長くなってしまった。
成績表をみると、わたしはずっとずっと頑張っていた。
ときどき力尽きたり、投げ出したりしてもまた食らいついて取り戻してみたり、授業中たくさん寝てたのに本当によく頑張っていた。
対人関係が恐ろしいのに毎日学校に行って、家に帰ればずっと母と二人きりだったのに、死なずに、中退せずに、成績も普通程度は維持して、本当に頑張っていた。
わたしはずっと頑張っていたんだね、と、思ったら涙が出た。
わたしは生粋の怠け者なのだとわたし自身が信じていたところがあったけれど、わたしはずっと頑張っていた。
ただ、郊外からの通学に疲れていたのと、とんでもない母に育てられただけだった。

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ただでさえもみくちゃの満員電車に制服で乗り込み、さらに痴漢にももみくちゃにされながら、往復3時間近く。
ボロボロになっても誰も省みてくれなかった。
今思えば、高校2、3年の担任はよく気遣ってくれていたような気がする。だけど、もう遅くて誰も信用できなくなっていた。
あの頃だれか、大人が気づいてくれたら。
あの頃、母がわたしをいたわってくれたら。
そう思えばキリがない。

過去が塗り替えられた

それでも、今回成績表を見ることができてよかった。
わたしは昔から頑張っていたし、頑張れる人間だ、と、大人になって思うことができた。
過去の自分のストーリーを、客観的な事実ですこし塗り替えることができた。
わたしは、だめな人間じゃなかった。
失敗しても疲れてもつまづいても、真面目に頑張って良くなってゆける人間だった。
だからよかった。
これからも過去と同じように、つまづいてもまた頑張ってゆけばいいのだから。