17/05/01 机の上にスポットライト

雇用保険受給についてはよく理解したつもりでいたが、「待機」の概念を勘違いしていて、思った半分しかお金が入らない。うっかりしていた。こまった。
お金が入ったら使うことばかり考えてしまう。それでも、現金で持っておくことでだいぶ貯められるようになった。
うちの両親もさいきんはいつもお金がない、という話をわたしにしてくる。わたしは父母の収入や貯蓄について、きいたことがないけれど、あの様子ではあまり貯蓄などもしていないのだろう。いつも買い物や外食をしている両親だった。わたしもそういう経済活動しかみたことがないから、いつも買い物ばかりしてしまっていたけれど、さいきんは同居人を見習って考え方を改め、だいぶよくなってきた。
いまここにある以上のお金は使わない。そう決めてデビットカードを作った。いま使っているMacBookAirの毎月の支払いが地味にキツイ。30歳までもあっという間だろう、

さいきんはラジオをかけるようになった。好きなコラムニストのジェーン・スーさんがラジオをやっているというのがききたくて、radikoを久々に使うようになったからだ。
ラジオをきいて作業をすると、作業の進みが不思議と良い。そういえばそうだった。まだとても成績がよかった中学生の頃、わたしはラジオをかけて机に向かって勉強するのが常だった。
テレビでは気が取られる、無音ではあちこち他のことが気になる。ラジオはわたしの脳みそをノイズからシャットダウンするのに丁度いい。ラジオをつけて手元のライトだけをつけると、机の上のこと以外はブラックアウトして集中することができる。
高校生くらいになってそれをやらなくなったのは、学習机にしていた机の高さが成長によって合わなくなったからだった。勉強するときはいつもチェアの上であぐらをかくか、膝を立てるかしていて、中学2年の後半から3年くらいから机に膝がつっかえるようになった。母にそれを話したけれど、わがままばかり言うとあしらわれて終わってしまい、その頃メンタルの問題を抱えてインターネットに没頭するようになったこともあって、勉強しなくなった。成績はがくっと落ちて家庭は余計に荒れた。
自分に合う環境を構築し、維持することが、わたしが何かを続けるためには必須だ。だけれど、何が正解かわからないものを果てしなく求めて行くのはなかなか大変だ。しばらく上手くいっても、他の要因からくるコンディションによって上手く行かなくなる場合もある。ほんとうに難儀だ。
成長して膝が机につっかえるようになったことで家庭が荒れるなんて、本当に、風が吹けば桶屋がもうかるみたいで笑える。

今日は、雇用保険給付のあまりの少なさにショックを受けて眠ってしまった。だめだ。今夜こそ、4月の家計簿の集計データを作りたいが、このまま眠って明日の日中にやるべきか悩んでいる。だけどとにかく、机には向かえている。ラジオ様様だ。さて、どうしよう。

17/4/30 Sun. からだのふれあい

足を揉むと、同居人はすぐに寝てしまう。
ベッドにうつぶせになってもらい、ふくらはぎを揉みほぐして、土踏まずを親指で流し、あとは足の指を摘んだり、側面の部分を押したり、足首を回したり。ついでにかかとのひび割れにクリームを塗っておく。それがいつもの流れだ。たいていの場合、相手は10分もかからずロレツが回らなくなっている。
不安で眠れないとき、仕事で疲れたとき、明日は頑張らなければならないというとき、同居人は申し訳なさそうにマッサージをせがんでくる。よほど自分がつかれている時以外はわたしも応じて足を揉む。
1日のすべてを終えて、風呂にも入って、あとは眠るだけ。相手の今夜のしあわせな眠り、それから明日のしあわせを願いながら身体をさわって、すこしくだらない話もして、相手は気持ちよくなり感謝されて、まどろみの中にいる相手の頭を撫でて電気を消す。このコミュニケーションがわたしは好きだ。

マッサージの身体のふれあいは大切な行為で、余裕があればこれからもときどきしておきたい。わたしが足を触って、相手が気持ちよくて眠ってしまう様子をみるのは、本当に本当にしあわせだ。わたしの存在が相手の役に立って、嘘のない、眠りという事実で確認ができる。セックスと同じだ。セックスをたくさんする必要があったのは、嘘のない・射精という結果で自分が役に立ったことが確認できるからだ(それに、自分は性行為に対する脳と身体のポテンシャルが高いから行為そのものもけっこうすきだったし)。
いかにもメンヘラっぽいが、おかげでいまはセックスなしでもどうにかやってゆけていて、深い信頼を築いている。

わたしから足を揉まれたり髪を整えられたり鼻毛を切られたりして世話を焼かれている同居人は、ドキュメンタリー番組で見るカバやワニのようだ。わたしはその背中にいつもたむろしている小さい鳥で、カバの歯の間の掃除をしてきれいにすることで暮している。カバは安心して小鳥に身をまかせるし、食べてしまうこともしない。それによく似ている。

17/04/15 Sat. 足すアプローチ、引くアプローチ

物事の改善には、2種類の方法がある。

まず、新しいもの、今はないものを導入することで改善してゆくという方法。
もうひとつは、今すでにあるものを取り除いたり、やめたりすることで改善してゆくという方法。
実はずっと、世の中で言う「足し算、引き算」という言葉の意味を掴みかねていたのだけれど、どうもこの二つのことをそう呼ぶらしい。

足し算、引き算とはなにか。

具体的な例をあげよう。
同居人も自分も、料理をするのも、食べるのも好きだ。だけれど、後片付けは苦手だ。
同棲してからというもの、流しが洗い物で溢れていて、手をつけるのも恐ろしくて食器や調理器具が使えず、料理のやる気をなくすことも多かった。
この問題を、「足し算」で解決する場合。
・使用頻度の多い食器や調理器具の数を増やす。(この場合、お玉や包丁、まな板、皿、箸など)
・食器や調理器具を使わなくてもいい食べ物を常備する/都度購入する。(カップラーメン、店屋物など)
「足し算」では、調理具が洗い場にありすぐ使用できない状況でも、料理や食事ができる一方で、洗い物はそのまま放置され、いずれ同じ状況で困ることになる。
では、「引き算」で解決する場合。(実際にわたしはこの方法をとった)
・使用頻度が高く、最低限食事をするのに必要な数の食器を残し、それ以外は収納し、めったなことがなければ使用しないようにして、流しが溢れて手をつけられなくなるのを防ぐ。
・こまめに洗い物をする。食べたあとはなるべく使用した食器や調理具を洗う。
「引き算」では、「食器が使えない」ことよりも、「洗い場があふれてしまう」ことにフィーチャーしている。こまめに洗い物をする回数は増えるが、消費するエネルギーは結果的に少なくて済む。

たぶん、「足し算」「引き算」はこの理解であっていると思う。物や要素を増やして解決するか、減らして解決するか。
なぜ、「足し算、引き算」の意味がこれまではよく掴めなかったか、わたしには心当たりがある。実家では基本的に、物事の解決には「足し算」しか存在していなかった。
困ったことがあれば、物を買い、増やし、新しいことを始めて解決しようとする。
だから家の中にはいつもたくさんのモノがあふれていた。

このことはスーパーで買い物をしながら考えていた。
近所でいちばんいいお肉を扱っているスーパーには、おばあちゃんのお客が多い。切り干し大根だったり、カロリーオフのなにかだったり、そういう「健康に良さそうな」、こまごましたものがあふれている。
お通じをよくするダイジェスティヴクッキーを太った同居人のために買おうとして気がついた。あのひとは、そういう言い訳があればこのクッキーを全部食べてしまって意味がない。
向かいの席の太ったおばさんは、「健康に良さそうな」(カロリーオフだったり食物繊維があったりする)スムージーやらお菓子やら、常になにかを食べていて、痩せる気配が一向になかった。
クッキーを買うのはやめた。デブはカロリーオフだと2倍食べる。
健康やダイエットにも、物を「足して」解決するアプローチと、「減らして」解決するアプローチがある。
物を「足して」解決するアプローチは、人生の質を上げたい、豊かになりたいという切なる願いだ。モノを増やして手に入れて、優雅に豊かに暮らす。だけれど、実際には経済的なコスト、増えたモノの管理コストが増え、人生を圧迫することもある。
物を「減らして」解決するアプローチは、方向を間違えると大切なものまで失ってしまう可能性がある。健康とか、人間として大事にするべきこととか。私は人生で炊飯器を持っていないという一人暮らしのひとを2人知っているが、米は絶対に人生にあるべき喜びでなくすべきじゃない。

この二つのアプローチ方法をバランスよく、自分の人生の丈にあうだけのものを選んで、みんなやっていっているらしい。
わたしはそんなことは知らなかった。ようやっと初めてわかった。
Yは明らかに「引き算」をして解決をはかることが多い。わたしは「足し算」だ。それでいて意見が対立せずお互い噛み合って暮している。
お陰でわたしは新しい考え方を持つことができたし、Yはわたしのお陰で生活が豊かになったと喜んでいる。
プラスマイナスがゼロで満ち足りている。一緒に暮らしだして、そういう面のお互いの良さがわかるようになってから、よりお互いの敬意が高まった。こういうところで喧嘩になるカップルも多いだろうから、自分たちはその点幸運だ。

ただ、Yには健康のためにもう少し痩せてほしい。カロリーの低いもので料理のカサ増しをするようなアプローチをするか、食べる量をそもそも抑えるアプローチをするか。彼の幸福感を考えると、どちらも悩ましいところだ。

17/04/13 Thu.T2

好きだと思っていたひとが醜く変わってしまうのは辛い体験だ。

というより、変わったのは相手ではなくわたしの目だ。

インスタグラムのおすすめユーザー欄に、7年ぐらい好きだったひとのアカウントが出てきた。

この人のことを拒んでフォローを外して自分のアカウントに鍵をかけた頃から、この人のインスタグラムはずっと見ていない。鍵をかけてもフォロワーのほかの誰かに聞いたのか、投稿内容を把握されていて、人間不信になったりしていたことも思い出した。

拒んでも惹かれて惹かれてなんとなく引き寄せられる不思議なひとだったから拒んで拒んで、遊んで、働いて、ようやく魅力も感じなくなったし、会いたいと思わなくなった。

それで、自分がいかに歪んだ認知のなかにいたか気がついた。10代からのわたしは、親も友人も信用できず、安心して心の内を話せる、相手をしてくれる依存先がこの人しかいなかった。それに、この人と関係するためにコストをかけすぎたから、ついつい「もしかしたらまだ上手くいくんじゃないか」と思ってしまっていたということに気がついた。

新しい音楽のまわりで健全な(人を貶めない、程度に健全な)友人、知人が増え、また、就職して、働く友人たちと対等に、フリーターの負い目もなく学生時代のことは忘れて、毎日教室で顔を付き合わせるのでなく会えるようになって、嫌いだったが職場のひとたちにも馴染み、客観性が身につくにつれ、なんか薄汚いオカッパおじさんにどうしてこんなにこだわってきたのかとしか思えなくなっていった。

悲しいから、各種SNSでもゆるく繋がりつつ、相手のアカウントは表示されないように設定している。

今日何気なくそのひとのインスタグラムアカウントをみると、相変わらず自撮りと、奇抜な服と、サブカル著名人との写真が並んでいて、表情の作り方も加工も変わっていなかった。わたしがむかし献上した変な色のジャケットもまだ着ている。髪型もほぼ変わらない。1枚なんて、3年くらい前にみた写真と全く同じ構図と服で、古い写真だなあと懐かしくみたけれど、コメントによれば最近撮った写真のようだった。

なんでこの奇妙なオカッパのおじさんが好きだったんだろ。

よく、「君は僕のこと好きじゃないでしょ」と言われていた。そうなんだと思う。選択肢がなかったから依存していただけだ。相手もそれがわかって、だけど選択肢がなかったから、承認欲求があったから、わたしの相手をやめなかったんだろう。二人ともかわいそうだ。

かつては「そういう」女の子とのことで悪名高いひとだった(と思う)けれど、さいきんはずいぶん丸くなったと聞く。

見た目は変わらないし自撮りも相変わらずだけど、家族や姪っ子の写真が増えた。

わたしは15才を過ぎた頃から23才か24才までには死ぬつもりでいた。自分はロクな大人にはならないし、自力で生きて行けないだろうし、老いて醜くもなる、世間に迷惑をかけるみっともないおばさんになる前に、惨めに生き延び続けなければならなくなる前に死のうと頑張っていた。本当はみんなのように生きたいけど、わたしにはできないから。でも実際、わたしは「みんなのように」はなれなかったけどそれなりに生きている。

死にそびれてしまって、初めて、寿命まで生きるにはどうしたらいいかを最近考えている。なにより、この先もYとずっと生きてゆきたい。これは全部余生だ。

あの時のあのひとの年齢になって、今のわたしの方が自立した人間だな、と、思う。

だけどいま、筋肉がササミみたいにつるつるしてるような男子高校生や大学生の若い男の子に猛烈にアタックされたら、やっぱり気をそそられたりするのかな?そこはあまり自信がない。

相手も自分も変わった。相手の見た目が変わらず、それを見るわたしの目が、感じ方が変わったのはともかく、相手の見た目も体型も7年近くあまり変わらないのは、よく考えたらそれはそれですごいことだ。もう愛も憎しみも依存もない、あっちはあっちで元気に頑張ってほしい。

ベッキ一も、わたしのように孤独だったのかな。

25年以上生きるとやっとこういう「時間の流れ(による気持ちの変化)」や「世の中の構造」みたいなものが掴めてきて、最近そういうものをよく感じる。

だから、運良く24までに死にそびれて良かった。この境地も、なかなか楽しいものだ。

17/4/11 転職エージェント

 

退職して、転職エージェントの利用登録をして一週間ほどになる。
あまり先入観を持ちすぎないように、転職エージェントの評判などは調べなかった。調べる余裕がなかったということもあるけれど。
担当からきた一通目の自己紹介メールで、まず拒否反応が出た。「保険会社に入社後、現職へ」「3児の母」「キラキラ輝く女性の働き方を目指して!」そのフレーズで怖気が立って、でもこうやってすぐ否定したらだめだよな、と、気を改めて電話で相談し、求人を紹介してもらった。
ただ、やはり合わないみたいだ。たぶん、このひとが得意とするのは、保険会社などの女性が多い職場、または(女性が多い)事務職の職場、らしい。
営業に転職したかったけれど、検索をかけてみつけたような求人が何十件も自動紹介されてきて、3、40件受けてみましょう!1割通ります!と言われるがままに応募はしてみた。
あまりにも自動紹介される求人ばかりで、自分が、もっと見る範囲を変えたい、営業事務の仕事も視野に入れたい、と伝えてみた。もしかしたら、そうした方向ならこの人も得意かもしれない。よく考えればエージェントの資質を自分が考えて傾向を合わせていること自体がおかしいが。その話をしたときに、「秘書は?」「一般事務は?」ときかれて、秘書はちょっと…(マルチタスクなので)と答えたのに、その後からは秘書やら総務やらの求人がいきなり送られてくるようになった。
これまでに送られてきていた求人も、経験が必要であったり自分のスキルには合わないものばかりで、応募したところで箸にも棒にもかからないだろうものが何十件も送られてくるので、うんざりしてしまった。
電通博報堂関連会社の営業も山ほど送られてきた。
入っても使い捨ての兵隊じゃないか、そもそも経験的に必須条件を満たしていないけど。
明日の朝には、電話する。明日の朝には電話して、いま面接が決まっている会社だけは対応するが、それ以降のエージェントサービスは断る。
そう決めて、転職エージェントについて調べてみると、どうも私が受けているサービスとは様子がちがう。スキルに合わせてエージェントが持っている会社を丁寧に紹介してくれる、そういうことがかいてある。
スキルも経験も不足している自分だから、こういう風にしかエージェント側も対処できないのはわかった。だったら、やっぱりもうここの利用は諦めて、スキルをつけるところから考えるしかないね。
職業訓練校に通おう。頑張ろう。できることが一つでも欲しい。

17/4/10 Mon. 新宿西口

ハロワークのある建物を出ると、「バーニラ♡バニラバーニラ求人♡バーニラバニラで高収入♡」のあの車が目の前を走り去っていった。

社会的にちゃんとした仕事をして、自らの意志で退職を選んだつもりだけれど、あのハローワークのどんよりとした空気のなかで役所的な雑な対応をする職員、決して明るい顔ではないひとたちを目にすると気分が沈む。

隣接する建物にある若者ハローワーク職業訓練の説明を受けに向かう途中、「お仕事探してませんか?」と中年の女性に声をかけられた。揃いのスーツに巻いた髪、小池百合子やうちの母親を思い出すような迫力ある身綺麗さだ。ああ、これは危ないやつだな、と判断して、「そういうのじゃないんで」とだけ言って振り返らずエレベーターに乗り込む。そんなに所在ない顔をしていただろうか。

雇用保険の受給は5月から。6月からの職業訓練の申し込み締め切りが近いから、明日までには何を受講するか判断しないと。

そんなこんなで、今日はキャパが終わってしまった。わたしの1日には通信制限があって、ある一定を超えてくると速度規制される。夕飯は同居人に任せて作ってもらい、食べ終わって座椅子で寝込んでしまった。

そんなときでも風呂には絶対に入るべきだ。むしろそんなときだからこそ。最近風呂のコツがわかって、それはどんなに寒くても湯船にいきなりは入らず、洗うのは顔→髪→身体の順にすることだ。

小さいことだけれど、大事だ。明日は実家へ帰る。

17/04/03 Mon.

退職はしたが、離職票がまだ届かない。ハローワークにも区役所にもゆけないので、今日はトレンチコートを買いに出ることにした。わたしは買い物が苦手だ。強迫観念にとらわれて、いつも中途半端なものを選んでしまう。きちんと居所、役割の定まった物を持つことが苦手だ。置く場所のない飾り物を買ったり、就職活動にはカジュアルだけれど私服には微妙なパンプスをどちらにも使おうと選んでしまったりして、いつも消耗してきた。洋服も持ち物も、可能性は全部手に入れたくなってしまう。

わたしが手に入れなくても、物の価値は変わらないし、わたしはわたしのスタイルを貫いて、いつも同じような服でもわたしの価値が下がることはない。そのことが、ようやくさいきん頭でわかるようになってきた。いつも違う自分にならなければならない、わたしはわたしのようにしていてはいけない、という焦りが常にある。意味のない焦りだ。

だから、メイクやファッションは悩ましい憧れの友だちという感じがする。好きで憧れてたまらないけど、そのことがわたしを苦しめ冷や汗をかかせる。振り回されている。

わたしの家族もそうした取捨選択が苦手というか、強迫観念にとらわれている。先日祖母の法事で確信した。従姉妹の家族はきちんと喪服として仕立てられた喪服、喪服用の鞄で来たのに対し、わたしの家族は全員間に合わせのチグハグな喪服を着てきた。そういうところだよ、必要なものにきちんと予算を割いたり準備をしない、そういうところだよ!と、心の中で思いながら、白隠禅師和讃を唱えていた。わたしも喪服を買うのをサボってスーツに、ヒートテックに直接カーディガンを着ての参列だったから反省した。

http://www.geocities.jp/sybrma/470hakuin.zazenwasan.html

白隠禅師坐禅和讃、けっこう良いことを言っているので身につまされる。マインドフルネスという感じだ。

現実にきちんと向き合って、そのとき必要なものを揃えられるようになりたい。でも大体そういうときは行き過ぎてしまって、必要以上にお金を使いすぎたりする。今日はトレンチコートしか買わない、予算は十分に取ったし、必要な要件もしっかり自分の中でとらえた。

買い物は苦手だ、喉がカラカラに乾いている。