わたしは鏡

コミュニケーションの「意味」のこと

ここ1、2週間くらい、またコミュニケーションの「意味」のことを強く意識するようになった。
以前にコミュニケーションの「意味」のことを意識していたのは、渋谷で働いていたころだ。
接客業をしていたときに、すべてのものに意味があって、だけどすべてのものに意味がない、と思いながら働いていて、そのころは人間と接する時にそのことを考えるとうまく対応できていた記憶があった。
だけどその「意味」にまつわるフレーズの記憶だけが残って、いつしかその本当の感覚は忘れてしまっていた。

すべてのものに意味がある

コミュニケーションには意味がある。
(というか、この世のすべてのものには意味がある。)
意味というのは言い換えれば、「本来の目的」「本当の目的」に近い。それは表面にあらわれてこないけれど、色々な形で表面から見て取れることがある。

たとえばどうにもならない難癖をつける人は、別にその問題をどうにかして欲しいわけではない。
怒るだけ怒って人を踏みにじって発散したいだけだ。
そういうときは怒るだけ怒らせつつ、踏みにじりたいように踏みにじらせたように振舞って、抵抗せず、受け流して、煽らず、静かに謝り続けると相手は勝手に勝利を得た気分になって帰っていく。

で、それをどうやって察するかというと、相手を察するのではなくて、状況や目に見えるところから相手に入り込んで、相手になりきってしまうのだ。
相手の表情を見て仕草を見て、服装や持ち物や髪のベタ付き方や、財布や、靴の汚れや、ここに来るまでの動線から、そのすべての意味をとらえて処理して相手になりきる。
そのすべてを一瞬でやって、答えとして出力する。つまり、目の前にいるのは私で、その私がいま求めている行動を自分が取ればいい。
そういうことを私はしていた。
で、また最近その感覚を思い出した。

「その感覚」は怖い

大学卒業して接客業をしていたうち半年間くらい、その感覚はあった。
最初のうちは、人とコミュニケーションを取るのが楽しくなってよかった。正解だ、と思える答えを出せるから。正解だ、と思えるのは、相手がわたしだからだ。
だけど、それは「本当に」相手にとっては正解ではないかもしれない。だから、意味は、あって、無い。
そのうちに目から入った情報を処理して出力するスピードが速くなりすぎて、街ですれ違って目に入ったひとの気持ちが「わかる」ようになりはじめた。
でも、そんなことはありえない。わたしは、そこには無い意味を読み始めているのではないか、と、自分に思った。そうなってきたらそれは病気だ。
それで接客業は一度やめて、半年間くらい事務のアルバイトをしていた。

その時もこの感覚について書こうとして、やはりうまく書けなかった覚えがある。
いまも、こうして書いてはみたけれど、後から読み返して理解できるかはわからない。
こういう感覚を持っていると便利だけど、また病気みたいになっても気持ちが悪い。
かといって、まだこの感覚を再び同じレベルまでもってきているとは思えないけど。

他人のモックを自分のなかに構築する

なんだか難しく書きすぎたけれど、もっと簡単に書き直してみよう。
わたしは自分のために行動できないし、自分の感情を表すことがうまくできない。
だから、いっそまず自分というものを一度空っぽにしてしまう。
コミュニケーションを取るべき人間が目の前に現れたら、その人を自分のなかにデータとしてコピーする。
データのコピーの方法は、その人の振る舞いや見た目、持ち物を目で見ることだ。
目で見たデータは、私の中で、いろいろな社会的な記号、文化的な記号に処理されて、その人を自分のなかに簡単に再構築する。
私は、私の中にコピーされたそのひとのモックみたいなものから、その人が必要としている行動を出力する。
もしそれが成功しなくても、私は傷つかない。導き出したのは私の中の他人のコピーだから。
成功していれば、わたしは、人間とうまくコミュニケーションが取れたな、と思って自己肯定感が上がる。
で、だいたい成功する。
ただ、処理から出力へのスピードが上がりすぎると、それが狂気なのか、賢さなのか自分でもわからなくなって、ちょっと怖くなってくる。

ヒトから求められること

わたしは「ヒトから求められる」感覚なしには存在できない。
自分というものが無いから、他人に求められることでしか自分の存在が証明できない。
逆に言えば、「相手が何を自分に求めているか」というのを、相手になりきって想像して振舞うことがとても楽しい。

人間は光だ。
わたしは鏡だ。なにもなければなにも写らないし、真っ暗ななかにいたら真っ暗なままだ。
他の人がきたら、その光を受けてやっと存在しているようになる。
そして、他人の姿を写し出す。
空っぽには空っぽなりの社会での戦い方があるということだ。

気持ち悪さ

じつはこの感覚を思い出したのは、この間、面接の練習をグループでしたからだ。
面接官の役をしてフィードバックをするとき、自分でも驚くほどスラスラと相手についてどういう印象を受けたか、どういう風に帰ると良さが出るか、という言葉がでてきた。
占い師みたいだった。
それはすごく楽しくて、とても気持ちが悪かった。
これを書いている今も、あの感覚は面白いし自分には必要だし楽しいけれど、書いて見てやっぱりうまく説明しきれない感じがあって気持ちが悪い。
だってこんなのスピリチャルか病気だと思う。
これに頼ればきっとラクだけど、一生演劇をして生きるようなものだ。
そしてその夢がふっとさめてしまったら、それはそれでやっぱり辛いのだ。

笑顔をすると善良な人間になる

頭の中を一度空っぽにして、目の下の筋肉を押し上げて、前歯の上の筋肉を引き上げて歯をむき出しにして、「わたしは芯から善良な人間なのだ」という気持ちで笑ってみる。
そうすると頭の中がそのまま真っ白になって気持ちよくなってこの感覚が戻ってくる。
目の前の人に芯から親切にしたくなる。
接客の仕事では笑顔で「いらっしゃいませ!」というときにこの感覚になっていた。
たこれをやったら、まあ、仕事は決まるだろうな、と、変な安心感がある。この感じがある間に決められるよう、まあ頑張ろう。どうせわたしには波があるのだから。