陰翳

監視と無関心

同居人の両親がわたしたちの結婚のことを真剣に考えてくれればくれるほど、自分の両親の無関心が不安になる。

高校生まで、「どこに誰と何時に何をしに行くのか」を3日前には伝えないと外に出てはいけないと言われ、
新卒の就職活動の時は、わたしがインターンやエントリーをしようとした企業のひとつひとつを評価してここはやめろ、と「助言」をし、
精神科医に就職も就職活動も無理だから一旦やめなさい、と言われたわたしに、「じゃあ誰が食わせてくれるの?しないなんて無理よね笑」と帰り道に笑い、
とにかく内定を、と言うので、親の監視外で勝手に応募して内定を取ったことを告げたらそんな変な会社には行くなと激怒し、
一人暮らしをしたときは、まず引っ越す前は落ち込みまくって母は寝込み、引っ越し後は毎朝電話をかけて起きているか確認してきたのに、
どうしてわたしたちの結婚には一言もないのだろう。

社会的なトピックとしてのわたし

わたしは不安になる。
親がコントロールできる世界の外にわたしが出てしまって、親はわたしへの関心がなくなってしまったんじゃないか。
わたしの自立を認めたというより、自分たちの思うようにならないことで、私のことが急にどうでもよくなったんじゃないか。
だとしたら、わたしの人生や存在とはなんだったのか。
わたしは、父や母にとって、「結婚して子供を作り育てる」という人生上で「社会的に」「クリア」しなければならないトピックとしての存在でしかなかったのではないか。
子どもをいい学校に入れる。いい大学に入れる。いい企業にいれる。そういう「トピック」でしかなかったのじゃないか。
「本当のこと」は見る角度やその時の気分で誰にもわからないが、
わたしのなかではそうとしか思えなくて、
それはわたしが一番恐れている答えを弾き出している。

過去とこれからのコントラスト

新しい家族をつくり、これから自分の人生を始める。
今までの人生から脱却して、そんな道に立てたことが、とても喜ばしいことだ。
その前途の明るさが、対比して、暗くて苦しい過去を際立たせてしまう。
脱却といっても、過去はいつもわたしに寄り添っている。
過去に受けた苦しみは終生の友になり、同居人よりも長く添い遂げることになるだろう。
まあこれまでだってずっといっしょに来た訳だけれども。

わたしを見て

わたしは親に祝福されずに、新しい道に立たなければならない。
ことさら呪い罵られることはなくても、関心すら示されないのはそれはそれで傷つく。
それでいて、「祖母の着物を着てほしい」とか、また「子の成長を祝う」体で自分たちの希望、それも、わたしは喜ばず、外向きに「子に良くしている」という風にみえることを言われるので、同じような過去の事が思い返されて辛くなる。
そんなのどうでもいいから同居人のご両親への飛行機代くらい出してくれればいいのに。
築地に行って1ヶ月に何度も寿司を食っているんだろ。
祖母のミンクのコートを何万もかけて作り直すぐらいなら、毎月の食費を助けてくれ。
愛情はお金じゃないけど、私が、わたしたちが、本当に必要とするところにお金をくれたら、愛情と思えるのに。
わたしが本当に必要としていることをしてくれたら、愛情と思えるのに、いつもピントのズレた答えばかり帰ってくる。
外向きには、悪い親ではない。むしろ、いい親御さんじゃない、と、言われる。それは、そう見えるように彼らが振舞ってきたからだ。
どんなに努力しても認められず、ボロボロのわたしに彼らの希望通りの就活を強いて、希望通りにならないと拒絶し、自宅療養を履き違えて軟禁し、就職を拒否し、一人暮らしを拒否し、手を離れたら関心を無くすひとたちなのに。
一度でもいいから私を見てほしい。
私を見て、私のことを考えて、私を認めてほしい。

もう嫌いになりたくない

この気持ちは一生続くのだろう。
父が死んでも母が死んでも。
母は、わたしが生まれる前に死んだ祖母の関心をいまも引きたいようにみえる。
父は、自分自身がそうされてきたように何もかもに無関心で責任から逃げている。
そう頭ではわかっても、同居人とその親族がわたしを溢れるほど受け入れてくれても、
自分の親から関心を持たれておらず、ずっと愛されていなかった、自分は愛情を感じられなかった、ということがわたしは受け止めきれない。
わたしの親は悪い親だ、なんて、言いたいわけじゃない。
むしろ、言いたくはない。それは、辛い。
ただわたしが辛かったことを知ってほしい。
わたしが辛く悲しかった、と話すと、親不孝だとか、親はあなたを思っていた、とか言われることが多い。
そうではなくて、親も彼らなりのベストを尽くし、それはわたしにとって最悪で、わたしは辛かったんだ。
もう、それを、ひとに説明するのも嫌だ。
また、親に「親らしい」振る舞いを求めてその度傷つくのもウンザリだ。
親を特別傷つけず、周囲にも喚き散らさず、ただそっと他人になって、遠くから手を振りたい。
親らしく振舞われるのもそれを求めるのも、できるだけ機会を少なくしたい。
もう悲しみたくない。嫌いになりたくない。

あるべき家族

学べたことがあるとすれば、他人を自分のいいように扱ってはいけない、そうされた人間は大変傷つく、ということと、自分の子どもには父母と同じように振舞ってはならないし、つまり彼・彼女の自立を助けるのが本当の親の役割だということだ。

同居人のご両親が真剣に考えて、助言をくれればくれるほど、嬉しい。家族というのはこうあるべきと思う。
そう思えば思うほど、そうした接し方をされたことのなかった自分の人生が虚しくなる。
理想とするひとたちと家族になれるだけでも、贅沢に幸せだ。それでも、そういうときもある。