結婚と、女として生きること

女らしさ

同居人と、付き合い始めてからもうじき2年になる。まだ2年経っていないことが不思議だ。
ということは、付き合い始めてから飼ったベタも、もうすぐ2年一緒に暮らしていることになる。
ベタの寿命は2年と言われる。近頃は冷えるからか、水槽のなかでよくボンヤリしている。
今朝みたら、長いヒレの裾が青白く怪我をしたようになっていた。
水温維持のためのヒーターで火傷することもあるらしいから、それかもしれない。
それでも平然とした顔をしている。魚はヒレに痛覚がないのだろうか。
とはいえ、わたしの方も体の末端まで痛覚があるのか怪しい。

転職活動のたびに履いたパンプスは薬指が当たる。それで薬指の爪が取れてしまった。
一度や二度ではなく三度も四度も気がつくと薬指の爪が取れる。
新しい爪が生えていてとくに痛くはない。歯が生え変わる感じだ。
繰り返すうちに次第に汚く生えるようになっていまは爪が乾いた米粒のようになってしまった。
母もこんな足の爪をしていた。

女はなぜこんな思いをしてまでパンプスを履かなければいけないのだろう。
そしてどうして、パンプスという靴は、履いてみると女らしくきれいにみえるのだろう。

レッテルへの抵抗

小学1年生くらいのときに、「女の子は虫取り少年になれない・男の子っていいな」という詩を書いた。
わたしは男の子になりたいわけではなかったし、女の子のことが好きなわけでもなかった。
どちらかというと、女の子として扱われることに居心地の悪さがあった。
なんなら、子どものころから「子ども」として扱われることも嫌いだった。
キャラクターものや、アニメや漫画は「子どもっぽい」「子どもだまし」だと思っている節があったし、その感じはいまもある。ずっと、キャラクターもののグッズをあてがわれるのがあまり好きでなかった。特にハローキティ
レッテルを貼られて、軽んじられることや、レッテルで、自分ができない振る舞いがあることに抵抗があった。
だからつまりわたしは生まれ持ってのパンクスなのだ。

「女の子なら・・・」

未だに自分が「女の子」「女性」として扱われる場面に、本当に吐き気を催す時がある。
男性から、(とてもゆるやかだとしても)性の対象として/相互理解できない別の生き物として取り扱われるときが一番気が楽だ。相互に理解できない別の性別のものとして、探りながらやっていこうという感じがある。
女性が苦手だ。もちろん、人による。同性だというだけで自分と考えが同じ、同じ文化に生きているだろうと考えるひとはとても多くて苦手だ。
女性はだいたい人生のセオリーが決まっているからだろう。恋愛をして、結婚し、出産し、母になって子育てをして、孫が生まれる。そうではない人生はたくさんあるのに。

世の中の「結婚」のイメージ

今度結婚するので、世間の結婚へのイメージサンプルを得るために、ゼク◯ィを隅から隅まで読んで本当に吐き気がした。
ぜったいキツいだろう、と思って床に3ヶ月くらい放置していたら同居人が足をぶつける事故がおきたので、処分のために読んで参考になる部分だけ切り取った。コミケカタログより重い。体重計に乗せたら2.5キロあった。
ホンネと常識、幸せな花嫁、心がときめくブライダル、家族に感謝、ゲストがよろこぶおもてなし、はずむ笑顔、、、わたしはいやだ。
わたしは、常識も、幸せも、ときめきも、感謝も、よろこびも、笑顔も、強要されたくない。
だけれど、これが世の中の結婚式を仕切っているのだ、と、思うと、世の中の求めに応じた振る舞いも必要なんだろうか、自分たちの簡素な結婚は、貧乏で粗末と思われるのではないだろうか、そういう不安が頭をかすめた。
わたしたちは、これから人生をやっていきます!というケジメと周囲への告知が必要なのであって、「幸せそう」だとか「感謝」だとかは、我々ができる範囲で、誠実にやっていけばいいだけなのに。

わたしは「世の中」に接して惑わされたり混乱しやすい。
そして、言葉を字面通りに受け止めやすい。
◯クシィのキャッチコピーを書いている人間だって、「ケッ、くそったれが、虚無が」と思いながら毎号仕事をしているかもしれない。「みんな!この情報を活かしつつ人生を頑張るんだ!」かもしれない。

いまだに婚約報告にイラつく

結婚もいよいよ日取りが近づいてきた。年が明けたら割とすぐ苗字が変わる。
今日も知らない女性の「プロポーズされました♡感動♡」というツイートをみて、反射的に、ケッ!と思った。
ピンク色の花束と、金色のマリッジリングの写真が添えられていたのがわたしのカンに触ったのだと思う。
ピンク色、花、ダイヤのついた金色のリング、疑いなくそれを写真に配置してSNSに貼付できる自信、その全てが、わたしのひねくれて醜くみえる気持ちを呼び起こす。
受け入れがたく、だけれど、受け入れがたいがゆえに憧れるものであり、世の中的にはこれが「幸せ」ならそれをやるべきなのか、わたしも「世の中」に一矢報いたい、といったそれだ。

わたしは、人生の伴侶を得て十分に幸せだ。
本当にこのひとの家族になれて嬉しいと思う。この人の家族の家族になれることも嬉しい。
わたしは十分幸せなのに、どうしてこんな風な気持ちにならなければいけないのだろう?
幸せであることを、世の中に承認されたくなるように、育ってしまったこと自体に腹が立つ。

結婚という「ゴール」は「出産」のリミットから逆算される

良い大学に入って海外留学もして就職難を乗り越えて良い会社に入りキャリアを積んだ友人たちが、「婚活」という化け物じみたものに追われている。
夢中になれる趣味もいくつもあって、オシャレで可愛くて、収入もたくさんあって実家も都内で、そういう子たちだ。

女にはリミットがある。
「子どもを産むか、産まないか」という選択肢は、年齢を重ねれば消える。
つまりその前に、その選択肢を持てる社会的状況を作る必要がある。
わたしも彼女たちも、社会の求めに応じて努力を重ねてきた。受験、大学受験、就職、キャリア。私は努力が実らなかった。彼女たちは、実らせた(ようにみえる)。

結婚は、不確定で、要件も不明なのに、それをしただけでそこまでの全てをチャラにするような「女のゴール」だ。
キャリアを積んでも、その「ゴール」は、世の中で頑然としている。

そのあとにも、子供は作るのか、そのための貯蓄はどうするか、家を買うならその貯蓄も要るし、出産後働くか、働かないか、正社員として復帰できるのか、他の道を探るのか、つまり積み上げたキャリアはどうなるのか、保育園には入れられるのか、兄弟はつくるのか、どこの学校に入れるか、習い事はさせるか、そもそも夫とうまくやれるのか、弁当を鮮やかにするのか食材にこだわるのか、というのが続く。

「結婚」はゴールのようでいて、その後のトライアスロンの入り口だ。
子供の自立が言うなれば「ゴール」かもしれない。そもそも子供が自立しない・できない可能性だってある。
そんな不確定で先の見えない「ゴール」に向けて、「結婚」をするための婚活をする。
「結婚」はしたら終わりじゃない。というか、してからがすべてだ。本当にいまそう思っている。
だから、本当にそれをやっていける相手とできれば最高だ。そうはできない場合もあるかもしれない。
そもそもそこまで漕ぎ着けられる相手を、ある一定の年齢までに「得なければならない」。

「マウンティング」と思うこと自体認知の歪み

ゴールできたものだけが、高らかに勝利宣言をして、ゴールできただけで「幸せな花嫁」「心がときめくブライダル」になる。なんなんだ、それは。
本当になんなんだ、それは。なんなんだ。
蹴飛ばして、ドブに落としてやりたい。
それはわたしがそれらをすべてマウント行為ととらえているからだ。
だから叩きなおすのはわたしや、友人たちの根底にある「世の中」で「勝ちたい」という気持ちなのだ。

婚姻制度は都合がいい

わたしは、同居人と交際して、この楽しいひとならば毎日会いたいから同棲をした。
同棲をして、この楽しいひとならば一生一緒に人生をやっていきたいと思うようになった。
相手も相手の家族にもそう思ってもらえたようで、わたしはドラフト1位指名で婚約者となった。
婚姻制度は、わたしたちには便利だ。都合がいい。
しただけで、「世の中」に対して、なんだか身元が保証されてすべてオッケーな感じになる。
税金やなんやかやの都合もいい。
ふたりで食べると食事も倍おいしい。

ちょっとずつ死ぬとしても女として生きる

わたしは「ゴール」したはずなのに、このモヤモヤはなんなんだ。
わたしは女だ。
薬指の爪が壊死してもパンプスに足をねじこまねばならない。
ねじこまねばならない、と思うし、パンプスを履いた足をとても美しいと思う。
熱帯の魚が、火傷をするとしても、水槽ではヒーターを頼りにして生きるように、
わたしは、苦しむとしても、社会でのなかでは女というジェンダーアイデンティティに生きなければならない。
そうしてだんだん、薬指の爪のように何度も傷ついたことにすら無感覚に壊死して、それでもパンプスに足をねじこみ続ける。