悪人正機

生きるために、良かれと思って気が狂ってる(としか自分には思えない)人間が多い。
自分もそうなのかもしれないけど、「人間」ってなんなのっていつも考えさせられちゃう。
5年前のように実家に帰って、家と食べ物の心配をすることなく、またズルズル布団の中を這い回りながら、何日も洗ってない髪と身体を引きずって、自分を産んで育てた親をヘイトしてれば、わたしが思うように倫理的に正しい「人間」をやれるのかもしれないとも思う。
だけどわたしは、その姿も「人間」と思えないだろう。

世に交じり、世間と折り合いをつけて食い扶持を繋ぎながら自分の道を求めていく、在野の「人間」をわたしはやっていきたい。というか、やらざるを得ないだろう。
色々と理想はあるし、わたしが思う倫理というのもある。
間違っていることも進んでやらねばならないときがあるだろうし、間違ったとわかっても引き返せないことがこれから沢山あるだろう。やだなあ。

大学を出て、仕事を3つ4つと雇用形態も色々に転々としている。
そんな中でみかける自分より10個、20個ぐらい上の世代は苦労ばかりしているようにみえる。
特に、バブル期に10代を過ごして就職氷河期に大人になった人たちは、自分たちの思い描いた夢や未来と、生きる現実に大きな開きがある世代に思える。
自分たちが苦しい思いをしたから、そうしなければ生き残れない、許されない。
わたしの観測範囲では、強くそう考える特定個人の数人が印象に残っている。
みんなで足並みを揃えてやらねば許されない、許すべきでない、そういう態度だ。
わたしは特殊なリベラル学校で育ったから、わたしは個人主義極左だ。
ただし、親元を離れるまでのそれは条件付きで、「わたし以外のすべての人間について」だった。

わたし以外のすべての人間は個であること、自由であること、幸福であることを許され可能性を持っていて、出来るだけ快く存在できるべきと思ってきた。
色々と葛藤を経て、今ではわたしも個で居ることを許される対象だ。
そうなってくると話がややこしい。わたしが犠牲になれば良い時代は終わった。
そしてわたしは、わたしが生きることの目的のために生きなければならない。

どうせこのような七転八倒の苦しみをしたのだから、できるだけ後の世代のためになる生き方をしたい、と思う。
というか、上の世代もそう思いながら、時代の流れの変化の方が人生より早くて、老害と呼ばれるものになっちゃった人も多いと思う。
だけどこれまで苦しんできた人の苦しみから生まれた歪さを憎むのも間違っていると感じる。

とはいえ無理なもんは無理だし、無意味な形骸と化した何かを後に続かせてしまう生き方はしたくない。
ビールはラベルを向けて注げ?ふざけんな、とかわたしの世代は思っちゃいますし、俺より年下にそんなことやらせちゃだめですよーと言いながら生きてやる、
こいつが変わった人間なのか?若い人はみんなこうなのか?許されているのか?と思われるような言動を繰り返しながら、わたしはアル中だから、年上に注がれた酒ぜんぶ飲み干して吐きながら泣きながらきりもみ回転しながらもんどり打ちながら路上に突っ込みながら生きる。
人間が生きることは切なすぎる、なんて切なく、愛しく、汚らしく、哀しいのかね。
わたしもそのように生きていくしかないのが悲しく苦しく、でもいまは闘志に燃えている。
やっぱ、1日8時間以上寝てるとなんでも闘志が湧くな。