2016.12.30


引越しの後片付けが終わらない。

年末年始を完全にナメていた。◯◯オフ系列ではないリサイクル業者や古書店は、年末は予約でいっぱいで年始はどこも6日あたりから仕事をするらしい。完全に誤算だった。三が日あけて4日にでも、と考えて8日に退去にしていたのに。

今日なんとか連絡がついたリサイクルショップに冷蔵庫や本棚みてもらったけれど、どれも引き取ってもらえなかった。困った。小さな棚や鏡などはどうにか引き取ってもらい、近場の小物系のリサイクルショップに、知人から譲ってもらって使わなかったレコードプレーヤーと細々したものを持ち込んで800円になった。値がつかなかったものも無理を言って拝んで引き取ってもらった。

物を買うのは簡単だが、捨てるのは大変だ。わかっていたつもりでいたけどここまで大変とは思わなかった。物を持つにも責任がいるのだ。

先日、交際相手がポメラを買ってくれた。これほしいんだよねえ、と何気なくLINEをして帰宅したら、Amazonでポンと気前よく買ってくれた。びっくりしてヒィーと声が出て、よくテレビの動画で見るサプライズプロポーズされた女の人たちのあの感じはこういう感じだったのか。ポメラはテキスト作成に特化された機械だ。きみに文章を書いてほしいから、きみはこれまで本当に欲しいものを洋服とかで誤魔化してきていたでしょう?だから、と、交際相手が言って、なるほどと思った。そうか、わたしは今まで自分のことを自分で決めることを誤魔化してきたんだ。

物を手に入れることは自分のことを自分で決めることだ。

物を買うってきっとそういうことだ。だから捨てるにも責任がいる。

2016年は自分の人生というのを考える年だった。うちの母たちのようには、きっとならないようにしよう。遅すぎるかもしれないけれど、わたしはわたしの道をいまから選べる。いい恋人もいる。

よかったじゃないか。いい年だった。いい年だったよ、2016年は。

2016.12.29 Thu. わたしこういう人だった

自分がこういう人間だったということを、目の当たりにした日だった。

同居人が地元に帰った。ばたばたしてきちんと挨拶もできないまま、大きな荷物はすでに移動したあとで、ちょっと残った荷物をまとめるのと、処分の手はずをつけようとして前の部屋に帰った。

部屋に行ってみると思った以上に荷物は多く、部屋は寒く、よくわからなくなって慌てているうちに夜の10時になってしまった。

そういえば同居人と同居するまではずっとこんな毎日だった。毎日よくわからなくなって、なにも終わらなくて徒労感に追われて、途中で2時間くらい茫然とする時間があって、どうにか一日を終わらせる感じ。

どうにか部屋には帰ってきたけれど、いまもほとんど椅子から立ち上がれないまま3時間経ってしまった。同居人がいたらさっさと風呂にはいってさっぱりして部屋の片付けをして布団に潜り込んでいるはずだ、1時間半で。それも間に、15回くらいの抱擁の時間を挟んで。

私は同居人がいなければなにもできない。それは、なにかを全部やってもらわないと生きて行けない、という意味ではなくて、私は私のために生きられないということだ。

私は、私の人生をようやく取り戻して、私のためにこの先のことを選ぶことができる、だけれど、未だにそうやったことがないから、正直戸惑っているし、こういった生活のことはやはりまだ自分自身のためだけに行うことは難しい。昨夜は飲んで帰ってから同居人のためにブリ大根を仕込んでいたけれど、今日のわたしはカップ焼きそばにお湯を注いで菓子パンを食べるのが精一杯だった。だけれど、気持ちだけは人一倍きちんとしてたいと思っていて苦しむことになる。

同居人といるときわたしは幸せだ。自分が真っ当な人間のように思える、というか、そのことを信じて疑わなくてよくなる。そんなことは考えない。

昔から思っていることだが、信頼できる人といるとき私は見た目上とても「人間らしく」なる。「人間らしく」なっているとき、わたしの心はなくなっている。触られると身体の摂理で、水分の位置の移動によって、ヒュッと葉をすくませるオジギソウのように、無心に反応する感情のない幸福な生き物になれる。

もちろんそこにも感情はある、気持ちはある、そして全て嘘じゃない、だけれどこうしてパソコンに向かって一人で文章を書いているときのわたしの「こころ」と、ひとといるときに表面に出てくる「こころ」は、全く違う層にあるもののように思える。

誰しもそういうものは持っているんだろう、というか、今はそう思いたい。昔はよくわからなかった。うまく言えないけれど、図書館にも本屋にも、あんなにたくさんの不気味で陰鬱な純文学、たとえば川端や太宰や志賀直哉やなんでも並んで世の中に存在してみんな少しは読んでいるはずなのに、どうして生活の中ではそうした「こころ」を持っているようにみえないのだろう、といつも思っていた。みんな「こころ」は隠している、信頼している人にも。隠しているというより、社会になじみながらそうした「こころ」を見せるのは難しいものなのだろう。そして人や社会とのやりとりで使わなくなった「こころ」は少しずつどこかへ消えてしまう。だけれど、その方がきっといい。

どうやったらわたしはわたしの真っ当なこころを取り戻して、ひとりでも自分のために生きられるんだろう?

同居人といるときはこんなことは考えなくていい。でも、ひとりでもこんなことを考えなくなるともっといいんだけど。一人が寂しい、という人は、こういう気持ちなのかもしれない。大概の人と一緒にいるより一人でいる方が楽で、だけれど一人でいるとこうやって思い悩む羽目になる。同居人といると幸福でこんなこと考えなくていい。

わたしのこころなんてはやくどこかへいってしまえ、まがい物のこころなんて忘れ去られて思い出されもしないところへ遠ざけて切り捨ててしまえ、そして同居人と幸せになりたい。

同居人といるとなんとなく幸せになれそうだし。

わたしのめんどくさいこころなんてはやくなくなって、ただわたしはわたしとして生きられますように。

2016.12.29 反射する想念


想念というのは反射するものなのかもしれない。

風呂場やトイレに入って一人になり、過去の失敗や逃れたいような仕事のこと、昨日の飲み会での自分の失態のこと、そういう記憶に呵まれ後悔する。

よく私は、うなり声や独り言をしてそれをかき消そうとして、またその自分の狂おしさに恐ろしくなり、自分は社会になじめないのではないか、また恐ろしいことが起きるのではないか、と、思考のループにはまってしまう。

だが、広い部屋では虚脱こそすれど、そこまで記憶の亡霊には呵まれない。同居人がいれば余計だ。

風呂やトイレでばかりそうした思いにとらわれるのは、そこが狭い部屋だからではないか?想念というのは物理的に反射して増幅するのではないか?

ふと、トイレに飾った唐辛子の赤色をみていてそう思った。音のように反射する物質なのではないか。特に負の想念は。

身体から滲んだ負の想念は、狭い部屋の壁に跳ね返って戻ってきて、そして無限に増幅する。

それならば、部屋は広い方がいい。

ひとり暮らしより今気が楽なのは、部屋の広さも関係しているようだ。

バッドなバイブスを出す人に囲まれていると影響されるのも、そういう仕組みなんだろう。

こう考えると、想念やオーラが「バイブス」とたとえられるのに、なんとなく納得がいく。

人体も吸音する素材だ。太った同居人が自分の想念を身を呈して吸音してくれている。

君が太っていてよかった。大きいお腹でよかった。

同居人に、俺はいつもなにかができていないのではないか、自分はだめなのじゃないかとか強迫観念があって不安になってしまう、と話した。

「君がそう思うことに対して俺は『そんなことないよ〜』『君は完璧だよ〜』とか言うけど、それは負担にはなってない?理解がないと思われてる?」と確認してくる同居人はほんとうに理解が行き届いていると思った。そして、人生の周回がもう2周ほど前の自分だったら(つまり、18くらいだったら)そういう言葉にイラついていただろう。今でも危ういけれど、同居人のいう言葉は信じられる。

交際相手の、全くもってひとを信用しきった態度がわたしを安心させるのだと思う。わたしはなかなかひとを信用したり信頼したりできない。それは、自分のことを信じられないからだ。

交際相手のイビキがうるさくて寝付けないので書きつけておく。お互い不幸にならないように、とっととイヤホンしたけどそれでもちょっとうるさい。


2016.12.10 Sat.

昨日は、疲れながらも楽しい一日だった。

幹事的なことや、音頭を取るのが苦手な自分がセッティングした忘年会だったが、奇跡的にみんな集まった。とはいえ、店のセレクトや婚約した人へのサプライズの手配は友人の一人がアドバイスという形でほとんど助けてくれて、自分がしたのは店への連絡と日程の調整くらいだ。自分はイベントをやったりしていて、人を動かすのが得意といって就活してたが、正直いまの仕事していても思うのは、自分は人と関わるのが無理だし、人を動かすなんてもっと無理、人に指示を出すのも会話をするのも無理、自分の認識はずれていたなあと思う。無理、というと諦めになるからよくないな、困難さが大きいし工夫が必要だ。イベントを上手くやれてたのは、ライブハウス通いでバンドマンとライブハウスのスタッフに顔がきいただけだ。

とにかく、こういう飲み会の幹事みたいなことをしたのは初めてだったが、お陰でうまく集まれて良かった。自分が幹事をすると、いつも人に合わせると予定が合わなくて参加できないところを、自分の都合に合わせられるからいいな。

いつも数時間単位で遅刻する子が時間通り到着し、長時間労働に心病む2人も9時には到着した。5年ぶりに会った子もいた。

5年ぶりに会った子は、不幸な恋へ半歩踏み出しているという話で、みんなでやいのやいの言った。隣に座って、ウーン…と言いながら、彼女はまるで自然に全身の力で寄りかかってきて、その小さい丸い肩が妙にあたたかく、変な気持ちになった。この子のこういう所が無意識に蠱惑的で、きっと付け入りやすさなんだよなあ、と思った。

彼女は小柄で、女性としては発育が早く、クラスで一番最初にワイヤー入りの大人のような下着をつけてきてびっくりした。小学生のときはわたしのことを妙に好いてくれていた記憶がある。なんだか変な気持ちになった。

元ヲタク女の集まりは、アセクシャル傾向のある子とバイセクシャルが多い。周囲に影響を受けて、自分も女の子もイケるかと思った時があったが、2度ほど試して女の子はどうしても気持ち悪くて無理だった。女性というものに畏れがある。強いていえば自分はゲイだと思う。男性が好きで、記号としての女性に憧れ続けているというか。

母校のひとたちはみんな気が狂っているが、その中でもマイノリティとして過ごしてきたメンヘラ傾向のあるヲタク女たちはより一層気が狂っている。思春期は手首切ったり食事を吐いたりして合間に同人を書いていた子たちが、血反吐吐いて真っ当な大人になって働いたり結婚したりしたことに感極まって二次会のカラオケで誰がなんの曲を歌っても泣いた。酒を飲んだのは久々だった。

友人の一人が、ひとりの部屋に帰るのは寂しいと言っていた。それをきいて、帰ったら同居人がいるのは嬉しいことだと思った。そういう気分もいつまで自覚できるのだろう。

珍しく最後まで楽しく話せて本当に良かった。話しすぎて後悔することが多い。弾みがついて、年末にかけてたくさん遊ぶ元気が出た。でも、今日の仕事はぼんやりして使い物にならなかった。

2016.12.3 Sat. 視線の中でわたしになる

トライアル同棲を始めて2週間が経った。

わたしは活発になったと思う。無力感に苛まれることが少なくなった。ただ、一人の休日を過ごしたりするときの感じは変わらない。今日は何かをしようと思って、いろいろ考えて家事をしたり洗濯をしていると、もう夕暮れ近くなっていて疲れてしまって昼寝をして1日が終わってしまうあの感じ。

他人の視線の中にしか、自分は存在できないと感じる。同居人の視線の中で、わたしになるわたしがいる。観測する相手によってわたしは変わる。そして観測している相手はわたしからみればわたしの鏡でもある。瞳の中に小さく映る自分がわたしをみている。この論理から行けば、わたしは一生他人とちゃんと、心から関われることはないのだろうと思う。さみしいけれど、本当にそう思う。それは交際相手に対してもそうで、でも必要とあればわたしたちは互いに離反し合うこともあるだろうね、というところまで話ができる人だから、よかったのだと思う。私の心はどこへ行ってしまったのだろう。

最近、久しぶりに小説を買って読み始めた。芥川賞をとった「コンビニ人間」だ。書店員時代に毎日レジから「火花」が平積みされているのを見ていた、この本もしばらくあんな風に平積みされるんだろう。

店員には「店員」というフォーマットがあり、どんな人間も等しく売り場に立てば「店員」という存在になるということの安心感について、共感した。わたしが百貨店の書店員時代に感じていたのはまさにそういうことだ。全てが合理性で割り切られて、均一な世界。目指すべき基準が明確な世界。わたしもそういうものが好きだ。

むかし、知人が「親なるもの断崖」の作者が描いているスーパーのレジバイトを描いたエッセイ漫画について、「女性の人権を描くような漫画を描いている人でも、労働の場では日本的レジバイトに奴隷根性でうっとりとしてしまうのが残念だ」と飲みの席で話していて興味を持って読んでみたことがある。わたしはその漫画にはけっこう同調できたし、労働の喜びというか奴隷根性というより、そこにある違うなにかに働くものは安心し、うっとりとできるのだと思うのだけど、その答えがやっと今わかった気がする。たぶん、書店員時代のわたしや、そのレジバイトのエッセイ漫画で描かれたあの労働への陶酔感というのは、自分のやるべきことの範囲が明確に決まっていて、理想とされる形が決まっていて、やってはいけないことも決まっているあの安心感だったのではないかと。あ、でも、それが奴隷根性なのか?

自分のようにADHD的性質や、そのほかの自閉傾向のある人の特徴として、「対人関係が苦手」というのがあるけれど、そうした人間が小売の店員などをやると、結構いい店員になってしまうというパターンがあって、「コンビニ人間」はその論理を描いている。人間を時給で使い、合理が全てで、やることなすことが規定されていて、規定されていない部分にも一貫した論理のある世界は、わたしたちに優しい。

店員でなくなったわたしは、気むずかしくて嫌味で性格が悪くて神経質な人間になってしまったような気がしている。だけれど、それは今の職場の人たちの視線の中にいてそうなっているだけだと信じたい。

最近、自分は本当に母に似ているというか、母もこんな気持ちだったのだろうかと思うことが多い。母はいつも自分の話ばかりしているのに、どういう人間かは未だによく掴めない。そういうところがそっくりだ。帰省したとき、父が「母といると疲れる。Aはずっとこんな思いをしてたんだねえ。俺はわからなかったよ」と言っていたのが印象深い。母は「良い母親」「良い親子」「良い家族」を、誰かの視線の中でいつも演じようとしていた。母の料理は美味しく、掃除は行き届いていて、家族はみんないい身なりをしていて、家の中はきれいに飾り付けられたりしている、そういう風に「見られたい」というのが彼女の埋まらない欲望なんじゃないか。

そして、私については、思い通りにならないことに苛立ちつつも、自分がこんなところで腐っていることをごまかすためのサンドバッグとしてマウントを取り続け、私の自信をへし折ってきたのだと思う。その上でさらに、自分は過去にはやりたいことを見つけて自ら積極的に動いて勝ち取ったのに、どうしてこの人にはそういうのがないんだろう!と怒りつづけていたんだろう。わたしだって好きなこと、やりたいことは小さな頃からたくさんあった。あったけれど、否定されて、否定されて、あなたにはなにもできることなどない、どうせ失敗する、あなたにはできない、といい続けられて、もう何に挑戦するのも恐ろしくて仕方なくなって、なにもできなくなってしまった。最近は少しできるようになって、自分の人生を取り戻してきた。そういう言葉に感化されやすい素養もあったし、家が遠くて常に寝不足だったことも大きかった。今更自分の人生を取り戻しても、失われた時間が戻らないことを虚しく思ってしまう。これからがあるのにね。

実家で家事をして、母は休日の私のような気持ちでいるのかもしれない。疲れた、休みたい、でもあれもこれも綺麗にして準備しておかなければ、わたしはどうしてこんなことをしているのだろう、今日もどこにも行けなかった、あれもできなかった。少し想像できる。

母と似ている自分に気がつく度、私は母の轍を踏まないようにしてゆかなければ、と、思う。まずは、過剰に洗濯や家事に勤しんで疲れて怒ったりしないようにしよう。部屋が汚れていても死ぬわけじゃない。洗濯や家事がされていること、食事が準備されていることが当たり前になってしまうと褒められもしないかもしれない。余裕のあるときだけやる、それから、家族に協力をお願いする、あと、協力してもらえなかったりしても怒らない。私は完璧じゃないし、相手も完璧じゃない。そういう態度を貫かなければ。

ここ2週間は正直すこし張り切りすぎた。自分の生活が第一でやってゆこう、せっかく最高の交際相手と同居しだしたのだから。

自分のことをぼんやりと考えている日だった。

ここ1週間ほどで、自分にとって2つ大きなトピックがあった。

交際相手との同居と、祖父の入院だ。

交際相手との同居はいまのところなかなか楽しい。最初の2日間くらいは、正直、他人が同じ空間に存在すること、他人のテリトリーに入ることに少し疲れた。交際相手本人にも、この部屋は臭い!汚い!君の存在がうるさい!とかばかり言っている。わたしはこういう言葉を投げかけられて育ったから、余計にすぐこういう言葉がでてきてしまう。よくないなあ、と、思う。部屋が汚いのも、交際相手がすぐ「好きだ〜〜〜〜!!!」と迫ってくるターンが日に3回以上は必ずあって鬱陶しいのも事実だけれど、それ以上に、家事をすれば褒めてもらえ、食事を作れば喜んでもらえて、部屋に帰れば交際相手がいることの喜びが大きい。

わたしは普段、ひとに物を頼めないし、断れない性分だ。「いい人」だからだととられることも多いけれど、その真逆で、ひとを信用できないからだ。自分が依頼をしたら嫌われるのでないか、逆に自分が依頼を引き受けなければ嫌われるのでないか、そういうことをいつも考えてしまう。本当は嫌だな、無理だな、と思うことでも引き受けてしまったり、他人に任せて業務を分散させたりが難しい。

交際相手に対してはそういうことが一切ない。信頼しているからだ。相手が自分を信頼しているから、こちらも信頼できる。相手がいかに自分を大切にしているかを言葉と態度で定期的に(かなりしつこく)伝えてくる。安心できる。だから相手のためにできる範囲でいろいろしたくなって、掃除とか料理とかが楽しい。「君ばかり働き者で俺は甘えてしまっている…」と交際相手は言っていて、たしかにちょっとそうかもしれないけれど、怠け者だとか、そういう言葉ばかり投げかけられていたわたしは、働き者と言われること、思われることが嬉しい。

入院してしまった祖父にも交際相手のことを紹介できるといいのだけれど。

祖父は急性膵炎だそうだ。もう92才なのに、この間まで旅行に行っていたりしたのがそもそも元気すぎたのだ。入院は2週間ほどになりそうらしい、退院したとして足は萎え、絶飲食で胃は機能しづらくなっているだろう。この後祖父がどうなってゆくかの大きな分かれ目に立っているんじゃないかと思う。

積雪の寒さのせいなのか、低気圧のせいなのか、また最近再開した就職活動のせいなのか、頭痛がひどい。書きたいことがたくさんあった気がするけれど、息が上がって苦しい。食事をしてお風呂にはいって、夜勤にゆく交際相手を起こして眠ろう。