肌とぬかと結婚生活と私

肌とぬか

前にも書いたかもしれないがシャンプーを変えて肌の調子が良くなった。
で、化粧落としを変えてまた少し調子が崩れてきた。
化粧落としは戻さねばならない。
化粧水も廃盤になってしまっているからまた振り出しだ。

女の肌とぬか床は似ている。
毎日ていねいに世話をみてやる必要がある。
だけれど手を入れすぎても良くない。
いいバランスを保つために何を入れるか、使うかはずっと試行錯誤だ。
安定したと思っても温度や外的要因で変化してずっと同じ状態ではない。

肌のレシピ(メモ)

いま肌や身体につかっているものはこんな感じ。
・シャンプー/リンス
ハーバルエッセンス body envy
www.the-seiyu.com
・化粧落とし
DHCニューマイルドタッチクレンジングオイル

DHC 薬用ニューマイルドタッチクレンジングオイル SSL 200mL (医薬部外品)

DHC 薬用ニューマイルドタッチクレンジングオイル SSL 200mL (医薬部外品)

洗顔料、ボディウォッシュ
牛乳石鹸 青箱
カウブランド 青箱 10コ入 (85g×10個)

カウブランド 青箱 10コ入 (85g×10個)

・ブースター(ごくたまに)
コーセー コスメデコルテ モイスチュアリポソーム・化粧水
コーセー ルティーナ ナノフォース オールバランサー・乳液
ちふれ 美白乳液・ファンデーション
MiMC ミネラルリキッドリーファンデーション
store.mimc.co.jp
(このファンデーションは本当に素晴らしく肌に合う。色も使い心地もすごくいい。)

肌の手入れには手間もお金もかかってイヤになる。
それから、安定的に手に入れるために、Amazonで買えるか、帰り道に最寄りの駅前で買える品物しか使いたくない。
ぬか床はもうちょっと適当で大丈夫だ。冷蔵庫で管理しているから大きくバランスを崩さない。
90年代か00年代くらいの漫画で、中年女性が冷蔵庫に入って若返るコメディがあった。
わたしもぬか床のように冷蔵庫に入れて管理されて安定したいとか考えてしまう。

毛やら傷やら

結婚式に向けて肌やら髪やらムダ毛やら傷跡やらのことを考えている。
できれば手首の傷の修正がしたかったが、どうも処置後半年ぐらいは新しい傷なので普通に赤くなるみたいで、かえって目立つかもしれないからやめておこうかと思っている。
でもこの機会に脇やうなじや腕の脱毛がしたい。
欲を言えば二重にもしたい。
自分の目の形は好きだけれど、どうしてもときどき腫れぼったくなる。
いろいろ考えることが多い。

「結婚して幸せに暮らしました」おしまい

今日は両家の顔合わせ食事会だった。
いい会になったと思う。
両親に話していて思うのは、やっぱり同居人と暮らすのは楽しいということだ。
家でお茶を淹れても楽しい。
西友に行っても楽しい。
道を歩くだけで楽しい。
色々同居人には思うところもある。だけど、まあ、お互い足りないところはあるものだ。
その瞬間の虫のいどころというのもある。
結婚が具体的になる前に、二人で暮らしたのは良かった。
良いときは楽しい。だけど、悪いときもある。必ずある。月経が毎月来るように、体調だったり病気だったり対人関係だったり調子を崩すときは必ずある(そしてわたしは月経で体調を崩すこともよくある)。
だけど基本的にはこの人といるのが楽しい。
そのことがわかったから、この人と一生一緒に暮らしてゆくのがよかろうとわたしは判断した。
色々もの思うときもある。トラブルだってある。病めるときも健やかなるときも富めるときも貧しいときも、まあ、それはそれで、ぬか床も肌も人生も、そういうことが起こるから、いつも弛まぬ努力をしてゆく必要があるのだ。

続・ゼクハラ問題

たぶん正式

婚約が一応正式になった。たぶん。
なんかビシッとプロポーズがあって、とかではない形だけど、私たちらしくて良いことだと思う。
なんとなく一緒に暮らして、楽しくて、なんとなく結婚というか今後もこの人と暮らして行く気持ちは固まって、親族に背中を押されてなにもかも不安定だけど結婚を決めて。
一緒に暮らして行く共同体として効率がいいのが家族で、それになることを内外に示すのが結婚であって、結婚というカタチをとることが別に目的ではない。
男女が一つに暮らすということの原義を体感で捉えられたきがして、そのことが嬉しい。

「みんなもそうしてたから」「ちょっとマウント」

婚約のことを何人かの友人や友人たちのライングループに知らせた。
他のみんなもそうしてたから、そうしておくか、というのと、彼氏方面から話が回る前に知らせておくと通りがいいかな、というところに、フォローのつもりで連絡をしたらドツボにはまった。
結婚やそれにまつわることを語ることがそれだけで謎の禍根を生じさせること、忘れていたわけじゃないのに、やっぱ言わなきゃよかったなーと思った。
(自分もそうだが、どうしてみんな自分のことになると喉元を過ぎた途端に熱さを忘れて声がでかくなってしまうのだろう、やっぱりマウントを取りたい気持ちがあるんだよな。そりゃ、あるよ。だったら余計に、傷つきムカつくひとは、ムカつくよな。)
前々から自分に対して煽る様なコメントを向けていた子が、また煽る様なコメントを寄せてきて心底腹が立ったり、他にもどういうつもりかわからないけど、微かな揉めが生じたり、一気に疲れた。
いけなかったのは、「他のみんなもそうしてたから」という考えのなさと、「(気遣いや親切のふりして)(いつも劣等感があるから)自分もちょっと人にマウントを取りたくなった」という欲求だろう。
形骸化はクソ、圧力もクソ。
けっこう反省した。
今更遅いけど、言う相手は考えようと思った。

沈黙は金、傲慢はクソ

いつかは言わなければならないことだとして、別に言わなくても何の問題もない。
そういうことだから、口にすると卑しいな。
でもやっぱり、嬉しかったんだよ。
メンタルがあれだったころからの知り合いみんなに、よかったね、と祝ってほしかった。
その魂胆が、傲慢で舞い上がってたなと思った。

とはいえ。
俺はその子の結婚も、動揺したし、仕事忙しかったし、忙し過ぎて服揃えるすら大変だったし、挙式でも色々話がちがうことがあってモヤモヤどころじゃない思いがあったけど、表面上笑顔でお祝いして3万円ご祝儀出したんですが。
そこが一番腹立つな。そのモヤモヤを感じ取って煽ってきてるのか。

3万円(但し、問題提起料として)

ただ、それをきっかけに、なぜ結婚やそれに絡んだことをするのか、その意味はなんなのか、周りにも祝ってもらえる結婚や結婚式はなんだろうと考えることができたから、3万円の価値はあった気がしてきた。
もちろん、もっと先のことかと思ってたけど。
自分たちなら、どうやるか。
というか、結婚とはなんなのか、挙式やらなんやらの意味とはなんなのか。
静かに婚姻届だけ出したっていいはずだ。
二人が一緒に生活を営んでいくことが結婚の本義だ。
ホテル挙式みたいな盛大で豪華な式は、もちろん綺麗で豪華でいいことだ。プランナーがつけば初めてのことでも安心だし、親族や友人や会社の人間にも、まとめて二人の今後を見守ってもらうお願いができる。
ただあれだけの規模のイベントを組むのは大変だろうと思った。
ご祝儀も相殺でブライダルビジネスに吸い込まれてしまうのも、夫婦を祝いたいのに、もったいないなと思った。
もっと二人の、いい結婚式はあったんじゃないか?ちょっと大事にすべきところがみえなくなってしまってるんじゃないか?そう思わされた式だった。
本当にわたしは、あなたが長く付き合ったひととようやく結婚するときいて、きいたとき、本当によかったと、動揺したけど、本当に良かったって思ってたんだよ。
高校生の時、ふたりで肩寄せ合って非常階段の裏で泣いたりしたときもあったじゃないか。
たくさん辛かったりしんどかったりがあって、それでも死ななくてよかった。そう思った。
あなたが好きな人と、結婚という形をとって家族になることをお祝いしたいと思ったよ。
mしかフォローしていない裏垢でもそう呟いたくらいに。

それが一番大事

詳しく書かないけど、彼女の結婚式を思い出すと、人生の一大事ではやっぱり人間舞い上がってしまって、他人の気持ちがわからなくなるんだな、と、思う。
ちょっと考えれば、わたしたち友人に負担をかけることぐらいわかりそうなものなのに。
でもこういうのが忖度を求めるってやつなのか・・・うーん。
いや実際負担だったよ。いろいろと。
とはいえ、わたしも今日は想像力がなくなってしまっていたな。
気をつけよう。
お祝いは、こちらから求めるものじゃないし、知らせなくていいところには知らせなくていい。
フェイスブックにだって書かなくっていい。ステータスだってなんなら変えなくても何も問題ない。
一番大事なのは、わたしたちが仲良く家族として暮らしていくことだ。

今後の気をつけポイント

もし、友達に話すときは、自分のことを(少し動揺したとしても)心底応援し、祝ってくれる関係性のひとにしか話さないこと。
できる限り、相手の気持ちを考えてタイミングをみること。家族としてやっていくので応援してください、という気持ちになれる人にだけ言うこと。
応援してもらわなくても別にいーや、ってひとには、必要なければ言わなくていい。
もし、結婚に関連して友達に協力をお願いするときは、友達が快く協力できるように、相応の対価を払い、作業工程には仕事以上にスムーズにできるように気を払うこと。

他人が暴力的にこういう話題を出すからって、暴力的なそれに習うのはあまりにも考えなしだ。
できるだけみんなが気持ちよくいれるように、わたしも、婚約者も、友人たちも、知人ぐらいのひとたちも。
気をつけよう。気をつけるよ。

引き裂かれた自己

商店街の灯

酔ってなにもかもが美しくみえる フェーズだ。商店街のアーケードの灯りも、街灯の灯りもやわらかく美しい。凍らせたキンミヤ焼酎(20度)のせいだ。

6300円のヒレステーキ(ミディアムレア)

結婚する。たぶん概ね結婚する。親は意外と大人しく口を挟まない。嬉しいことだが不気味で不安だ。いままでずっと、後ろから撃たれてきたから。

今日は母方の親族会だった。ホテルのレストランで6300円する、150gのミディアムレアのヒレステーキのコース…92歳の祖父が食べきれなかったぶんまで食べたのでお腹いっぱいになった。1800円のモヒートも飲んだ。
で、夜からアンダーグラウンドな音楽のイベントにでかけてへべれけだ。
わたしの帰る家への道のりは静かだ。夜風が夏の終わりらしく涼しく甘い匂いがするのが酔っていてもわかる。虫の声。

引き裂かれたわたし

こういうとき、わたしは、自分が引き裂かれていると感じる。6300円のホテルランチ、300円のキンミヤ焼酎、下水はにおうけど楽しい家賃8万円のくすんだ我が家。
6300円のスカしたホテルランチも、わたし。くすんだ家賃8万円2LDKで風呂場のカビを歯ブラシでこするのも、わたし。

レイヤード

世の中には、いろいろな断層がある。自活するようになって、そのことが初めてわかった。特に東京は。いろいろなレイヤーがあって、それは角度を変えなければ、目に見えない。

赤坂をジャケット着て歩くのもわたし。合計800円の刺身の夕食で大喜びするのもわたし。ジャケットの中には、1000円で買ったブラウスを着込んでいる。それがわたし。バラバラのわたし。

善く生きる

気がつくのはむずかしい

シャンプーを変えてから肌の調子が良い。
前のシャンプーはフケや痒み対策がPRされた商品なので使っていたけれど、合わなかったようだ。
午後になると頭皮が香ばしくなって、黒いカーデガンを羽織るとフケが目立って、憂鬱だった。
アトピー気質で冬にフケが目立つことはあっても、夏にはなかったことなので、加齢のせいかとすこし落ち込んだ。
顎のラインから首にかけてのニキビも人生でいちばんひどく、これが(ニキビでなく)吹き出物か…と落ち込んだ。
ここさいきん化粧水を変えたりビタミンを飲んだり悪戦苦闘していたけれど、シャンプーを変えたら全部改善してしまった。
生活にはいろいろな要素があるし、自分の問題とその原因に気がつくのは難しい。

(さらに同居人のつかっている牛乳石鹸で顔を洗うようにしはじめてからはもっと良くなった。
 その途端に広告が炎上しだしたけども…。
 インターネット上の意見をみると、普通に堅実でいい製品なのに!という意見ばかりだ。そうだそうだ!
 感情をインターネット上で増幅させたくないので、CMはみてない。)

続、パソコン・iPhone問題

母からのパソコン絡みの連絡がいよいよ激しくなったので、急遽実家に日帰りで数時間帰った。
母の訴えを詳しくきいてみると、母が大きく恐れているのは、これまで撮りためた犬やら猫やらの写真が消えることだった。
iPhoneは差し込み口が故障して充電できなくなって慌てて買い換えたものの、アドレスしか移動できず、前に飼っていた犬が死ぬ直前の写真が消える!と、母はたいへんに混乱したらしい。

他人のおばさん

いろいろ事情をきいたが、そんなに混乱するなら、母ができる範囲でも講じられる対策はいろいろあっただろうに…とは思ったが、たかだか犬の写真で狼狽する母をみて、パソコンに弱いけどプライドが高い精神不安定な60代の他人のおばさんとしか思えなくなった。
わたしは、他人のおばさんに辛く当たるような人間ではない。
それで、たいへんだったね、たいへんだったね、と、話をきいて、それから、大したことないから非正規の業者を探して差し口を直してもらえば大丈夫だよ、と元気づけて来た。
母という人の気持ちに寄り添った。口先で。接客業と同じだ。わたしは、本当の心がそこにない方が、芯から優しい(ようにみえる)微笑みや言葉がつくれる人間だ。母は最後、初めてわたしの前で涙ぐんだ。

あの人はただパソコンに弱い他人のおばさんだ。かわいそうだから、気持ちに寄り添ってあげよう。
そう思ったらひとつ肩の荷がおりた。
ある意味ではようやく、母を自立した他人だと認められることができたのかもしれない。
母に認められたいとか、母に優しくされたいとか、母なんだからこうしてほしかったとか、そういう思いから一歩離れられた気がする。
それにしても、母の狼狽ぶりは大変なものだった。
なにかと依存しがちな精神の弱いひとなのだと思う。だってわたしの母親なのだから。

上から見るか横から見るか

そうやって一歩離れて母を見てみると、このひと自身が自分の気持ちを塗りつぶして隠して歪んでしまったのだろうな、と、感じた。わかってはいたが、生育環境も考えると、仕方がないのかな、と思うようになった。
親との問題もあったのかもしれない。祖母はわたしが生まれる前に亡くなっているし、祖父は孫のわたしには好々爺でしかないので、過去のことを母が語らない限り知ることはできないけれど。
母はいつも、自分がいかに輝かしい人生を歩んで来たか、素晴らしい人間か、とわたしに語ってきた。不自然なほどに。
人間は、触れられたくないことについては饒舌になる。
もし、過去のことを母が自分の苦しみや我慢の視点からいま語り直してくれるなら、それを聞いて見たい。大変な苦労や苦しみがあったはずだ。だけど、還暦をすぎた母が自分の人生を異なる物語として語り直すことは難しいだろう。
それはここまで築き上げて来たプライドとアイデンティティを失うことと同じだからだ。
人生も社会も、どこに視点を置くかでまったく違う見え方やストーリーが生じる。

たゆまぬ努力

全然関係ないけど、最近読んだ『クッキングパパ』と沢村貞子さんの『私の浅草』は、どちらも、過去の時代の常識と、その移り変わりを考えさせられる作品だった。
過去の時代というのは、つい、ひとところにとどまって完成していたかのように感じてしまうけれど、明治生まれの浅草の長屋で布団を縫ったり長唄を習ったりして育ったひとが晩年はテレビをみて海辺のリゾートマンションで余生を送っているのは、時代の流れがあるからだ。
クッキングパパ』では、九州男児のパパは、少なくとも3巻まで読んだ限りでは、機会があればどんどん料理を作るのに、それは奥さんや部下の女の子の手柄にしている。
男子厨房に立ち入らず、という考え方が85年頃はまだあったのだ。会社で大量のあて名書きで残業するなんて話もあった。飽くまでどちらもフィクションだけど。
仕事はできるが家事のできない娘を恥じ、男は仕事、女は家事と育てられたものだが…という義父に、パパは「お義父さんたちの時代は、それがいちばん二人の力が出せる形だったんでしょう。僕らには今のやり方がいちばんいいんですよ」と言う。すごい。
そんなパパも、wikipediaを読むと、130巻を超えた現在は料理もオープンだし、ちゃんとスマホも使うらしい。
時代は確かに移り変わるのだ。

誰しもが弛まぬ努力によって、より善い生き方を目指してきた(たぶん)。
父も母も、正しかったかはわからないが、そうだったのだ(たぶん)。
わたしたちも、これからもずっとその努力を重ねてゆくのだろう。
人生も四半世紀を過ぎて、まだまだたくさん知ることがある。
無限大の未来から自由になって、自分の身の丈がわかったいまが、いちばん楽しい。

寄り添って

生きていくライセンス

23才から先、自分が生きていくと考えたことがなかった。23才までに死んでしまおうと思っていたから。
でも、その約束の23才を過ぎて3年、わたしはまだ生きている。それどころか、これから先もずっと生きてゆきたいと思っている。
だけれど、これまで、死のうと思って生きてきた人間が急に方針転換をして、生きていくために生きていくのは難しい。考えたこともなかった大仕事だ。

いま、わたしがてらいなく生きてゆきたいと言えるのは、同居人のおかげだ。愉快でときどきうるさいこのひとと、これから先もずっとずっと生きてゆきたい。同居人といれば、わたしは生きるために生きることができる。恥とか、外聞とか、見てくれとか、そういう今まで気にしてきたことを気にしないで、わたしがわたしとして生きていくライセンスをくれる。
お互いに自立し、尊重しあって、これからも長く生きてゆきたい。

エッセイが面白い

寄り添って老後 (新潮文庫)

寄り添って老後 (新潮文庫)

酔って帰った夜、古本屋の100円の箱の一番上にあったこの本をふっと買った。発行されたのは私が生まれたころだ。
自分の祖母よりずっと年上のひとの話を聞ける機会を得たような気持ちで読み終えた。
さいきんはエッセイの類いが面白くて仕方ない。わたしがこれまでなげうってきた、生きること、生き続けることに必要なヒントを、いろいろな人生や生活のありようから学ぶことができる気がしている。

「生まれて四半世紀を過ぎて、ようやく人生のスタートラインに立った気持ちです。」
この間の仕事の面接のときに、ふっとこういう言葉が出た。
死ぬつもりだった23才でようやく生まれなおして、早回しで幼年期から思春期をやりなおして、今ようやく自立した人間になれる道をみつけた気がする。

味噌汁の味

著者が親から言い聞かせられていたという「お前がどうしてもしたいことは、していいよ。ただ、自分で責任を持つんだよ」という言葉は、自立し、お互いを大切にする同居人の家の人たちを彷彿とさせる。
わたしはいつでも、危ないからやってはいけないとか、それこれは外聞がわるいからやめろとか、そういうことを言われて育ってきた。
この人は「どうしてもしたいことはしてもいいが、他人様に迷惑はかけず、自分の責任でやること」としつけられてきたという。「世が世なら我が家は…」とかいうのもよく口に出す人がいるが、世は移り変わるもので、なかなかもとには戻らないから、そうした「型」にこだわるでなくそれぞれ「わが家の暮らし」「一緒に暮らすひと」を大切に…といったスタンスが好ましい。
「夫婦それぞれが違う家で育った以上、味噌汁の味の好みが違うのは当たり前のこと(中略)ふたりだけの味噌汁の味を作るのが大事」
この一文がいちばんいい。

老いの予習

老いていく身体のこと、億劫になる日々のいろいろ、死を思いながら寄り添う毎日のこと、「もったいない」と思うことと「切れ離れ」をよくすること、困ったときは助け合っても詮索はしない下町流の人付き合いのこと、どれもとても面白く愉快だった。愉快に老いるための予習をした気持ちだ。
なにを読んでも、見栄を張って欲張りなうちの家族とはまるで正反対だった。時代も一周して、経済成長がつっかえた後につつましく生きようとするわたしだから、父母よりも曾祖母の世代のこのひとに共感するのだろう。
自分の子どもや孫たちが生まれるとして、彼らの生きる時代はわたしたちの時代とはまた違うのだろう。そのときは、自分たちのやり方に執着するでなく、彼らの話をよく聞けるおばあさんになっているといいな。

仕事を辞めて、本が読める精神状態が戻ってきて楽しい。本はわたしをどこにでも連れて行ってくれるし、曾祖母のような年のひとともお話しさせてくれる。
わたしもこのひとのように、同居人と寄り添っておいしい食事を小さく食べて、長生きしたい。

break;

パソコン・iPhone問題

両親はパソコン関連に強くない。
わたしも長くインターネットをしているのに、パソコンもインターネットも、かなり苦手なほうだ。
実家のパソコンと母のiPhoneの一連のトラブルで、母は何度もわたしに連絡をしてくる。
挙動のおかしいパソコンを買い換えないことにはどうしようもないよ、と説明しているのに、何度説明しても、また同じ連絡が来る。
インターネットの契約をしている会社の、いつでも答えてくれるというパソコン関連サポートダイヤルの契約だかをしたと、誇らしげに言っていたのに、何度も同じ内容でわたしに連絡が来る。

コストはかけず・小手先で誤魔化す

毎回、「あなたがやってくれるといったのに、やってくれないから自分(母)が不利益をこうむっている」という口ぶりで連絡が来る。
専門家に問い合わせるつもりも、パソコンを買い換えるつもりはないようだ。
母の苦手なジャンルのことだからだろう。
いつもと同じ、重大で失敗をするかもしれない問題は、根本的な解決をするのではなくて、小手先でコストを割かずに解決したいと思っているのだろう。
無料で使えて、マウントを取れる相手だから、わたしに連絡が来る。
自分が苦手なことをするのが嫌という気持ちで、理解できない説明はなかったことにされる。
わたしに訴えたのに何もしてくれなかった、と言われる。毎回だ。

母の日の前、この件に加えて別件もあったので、時間を取ってわざわざ実家に帰った。
それで、また同じ説明をした。
一昨日、また母から同じ件で連絡があった。
「母の日にアップデートをしてくれるはずだったのにね!!!」という一文で、わたしは心底うんざりしてしまった。

親不孝だという気持ち

わたしは、自分は親不孝だという気持ちがある。
親に多額の投資をされたのに、精神を病んで大学も留年し、まともに就職もできず、お金持ちと結婚するでもない。
わたしは無駄の塊みたいな人間だ。
生きている価値がない。死なないとならない。
ずっとそう思って生きてきた。
あなたは、だめで、心が弱くて、いつもお金を無駄にして、だらしがなくて、なにもできないと母から言われて生きてきた。
でも別に、そんなことないのでは?と、実家を離れて思った。
自分は、愛嬌があって、好奇心が強くて、けっこうマメで、細かいところに気配りができて、真面目で、ずっと社会に関わろうとし続けてきた。

親との問題は、こうして考え始めると、いつも同じところで内にこもってループしてしまう。
自分の考えを補強しようと、被害妄想になっているのでは、と、自分で思うときもある。
実際、「母の日」というキーワードに、わたしは親不孝ではないか、という気持ちが刺激されてうんざりした。
自分は被害妄想なのではないか。自分の考えのために事実を曲げているのではないか。
だけど、わたしは、勘違いだとしても、被害妄想だとしても、怒っていいのだ。
わたしが、怒りを感じたときには怒っていい。
怒りを感じてはいけない、と、抑え込むから問題はこじれるしストレスになる。

繰り返す記憶

くだらないことで怒ってしまうのは、これまで自分がないがしろにされてきた記憶がこういうときに繰り返されるからだ。
自立をしようとする度に後ろから撃たれてきたいくつもの記憶が、毎回再生されてそのときに我慢した怒りがくすぶる。

パソコン問題での連絡をいい加減にしろ、前にパソコンを買い換えるしかないとすでに説明した、わからないなら専門家に質問して、と、わたしが怒ってから、母は連絡をよこさなくなった。
結婚の話が進捗を見せて、顔合わせの件で連絡しているが、父からだけ返信が来る。
さっき、「いよいよiPhoneの調子が悪いので明後日auに行くまで連絡がつきません!沈黙の母より」とだけ連絡が来た。
やっぱりヘソを曲げて連絡してこないらしい。
沈黙だか岸壁だか知らないが、この一文でわたしの被害妄想は加速して、いよいよカッと来てしまった。
いつもそうだ。わたしが怒って反発して口もきかなくなると、翌朝は何事もなかったかのように話しかけて来て、わたしの怒りを茶化して困惑させて、問題をそのままにする。

ゼクハラ加害者

結婚の話は、どこで話してもモヤモヤする。
手放しに喜ばれるか、聞き手にストレスを与えるか、その両方かだからだ。
手放しに喜ばれても、母の問題や、今後の不安で、わたしは嬉しいというよりも、大きな仕事に覚悟してかからねばならないという気持ちでいるので、この不安を話せなくなる。
結婚、とか、恋人、とか、ゼクシィ、とかという単語を聞くだけで、「けっ!」となってシャッターが降りてしまう気持ちは、自分自身が少し前まで経験していた。

仕事やメンタルや母の問題を書くためにつくったツイッターのアカウントがあるが、どうもそこでも知人にストレスを与えているような気がするので、今後結婚に絡んだことを書くのはやめようとおもった。
ストレスを吐き出せる場所をもっと作らないと、破裂してしまう。だけど結婚の話は、地雷を踏みすぎる。
これから話が進めば進むほど、母の問題はまた出てくるだろう。
そう思うと気が遠くなる。

前進、でも、わからない不安

就職活動は、イヤな気持ちになることも多いが、ゆっくりと前進している。
結婚の話も、イヤな気持ちになることも多いが、相手のご両親に後押しされて進んでいる。
どれも前進しているけれど、あやふやで、グラグラしている。
いくつものことがあやふやで先がわからない状態なので、不安になる。
さいきんすぐイライラして不安になって、同居人には申し訳ない。

お茶を囲んで

2LDKの部屋で、苛立ちで煮詰まったとき、ふたりでお茶を飲むとなんとなく場がほぐれる。
いろいろなことを話し合いたいし、我慢しすぎないようにしている。だからぶつかるときもある。
向かい合って真剣に話し、話を聞いてもらえることは、今までの人生とは違う。
お茶を飲んで向き合うとほっとするし、今後もこの人とやってゆきたいと改めて思う。

明日は前職の同僚と会う。結婚して長野かどこかに引っ越すときいた。
結婚祝いに、お茶の缶と茶さじと、ほうじ茶を買った。
彼女は本当にいいひとなので、幸せに暮らしてくれるといいなと思う。

ゴーストバスターズ

よくインターネットで揶揄されるような(だから自分が出会うことはないと思っていた)企業戦士みたいな人種と面接で当たってしまって、あまりの考え方の違いに、ショックを受けて寝込んだ。
もっと正確に表現するならば、「コミュニケーション可能だと判断した後で考え方が全く違うことに気がつき、他にもそうした人間が『社会』の多数派なのかもしれない、と思って不安になって」寝込んだ。
社会の多数派があんな感じならわたしはやっぱり社会でやってゆけないかもしれない…。
考えが内に内にこもってゆくことから抜け出すには、違う世界が必要だ。
部屋から一歩も出られなくても、いまのわたしにはAmazonFireTVがある。
プライムビデオで『ゴーストバスターズ』(2016)をレンタルして観た。
ホルツ博士にめちゃくちゃ似てる友達がいるので、気になっていてずっと観たかったやつだ。ゴーストバスターズも好きだし。
当時は仕事でヘロヘロになっているうちに、興行成績が振るわなかったのかすぐに公開が終わってしまっていた。


観終わる頃にはなんとなく元気になった。下品なギャグがよかった。
ポリコレの匂いがするけど、わたしが嫌いな感じではなかった。
というか、ポリコレ的なものを見かけるたびに、わたしはより、みんな自由に互いに下品になってしまえばいいのにとか思うから、割と理想の温度感で、これまで女性に適用されがちだったメソッドを使って男を小馬鹿にしつつ愛している映画でよかった。
スーパーマンのような記号を持った男性が、頭が空っぽ、とか面白かった。
でもWikipediaを読んで見ると、正しさが十分でない!みたいな批判もあったみたいだ。
逆に、男性からの批難もあったんだろうか?それはちょっと読んだだけではいまいちわからなかったけど、たぶんあっただろうと思う。

わたしはマイノリティに立つし、サブカルに立つ人間だから、本当はもっと悪趣味で下品でいたい。
悪趣味で下品で投げやりでいたいのだ。
だけど、世の中が醜悪になりすぎて、いやいやちょっと、メジャーのひとたちはもうちょっと考えないと全員死ぬぞ、と思うことが多くて、ポリコレみたいなことを考えるようになった。
でもそういうことを常に考えているとどんなギャグでも、笑うときにちょっと心にひっかかるものがあって苦しい。
太ってる同居人はほんとうに見た目も陽気で愉快で楽しくて大好きだし我々には信頼関係があるから太っていることを笑うけど、そうやって太っていることを面白がる流れを作ることで他の誰かが嫌な思いをするのじゃないかとか…
めんどくさい。
とにかくめんどくさい。
ゴーストバスターズは、そのあたり、意識してつくられてることは感じ取ったけど、めんどくさい気持ちにはならなくて楽しかった。
わたしはいい映画だったと思う。昨日観たのに今日も観た。愛とオマージュとバランス感覚のある楽しい映画だった。
忘れてたけど、いくら大統領がやってきたって、アメリカは映画で問題解決するとき核兵器ばかり使うなーと思ってウケてしまった。ウケてしまったし、ウケていたいのよ。