頑張り屋の中学生だった

発達障害の診断材料

母親から受け取ったむかしのわたしの資料を受け取った。
だいぶ前に、「発達障害の診断を受けるのに必要になるかもしれないから、母子手帳など発育などの資料がほしい」と依頼していたのだが、母子手帳などない!と拒否されて、でも数年経って申し訳程度に中高生以降の資料が出てきた。

母を信じたい

母は、認めたくない事実に直面すると、まず荒唐無稽な拒否をカマしてみて、その後下手にでてきたり、微妙にトンチンカンにダウングレードしたリターンをして誤魔化してくる。今回は発達の診断というワードだ。
わたしはやっぱり、母は、本当は理性的で社会常識がとてもあって、神様のようになんでも知っているひとだ、という母自身の主張を信じたい気持ちがある。
今度こそ、母の「本来の」「マトモ」な面、「親らしい」振る舞いみたいなものに出会えるんじゃないか、と、いつもほんの少し期待する。だって、本当は母は「マトモないい母親」のはずだし、本人はそのつもりだ。
それでシッカリ毎回裏切られて、こういうトンチンカンな振る舞いをされて、ちょっと傷つく。
私は母を信じたい、と、いつもいつも思っている。
だけどもう遅くて、もし「親らしく」振る舞われたとしても、またどこかで裏切られると思ってビクビクしてしまうんだろうな。

先生のコメント

成績などの資料は、いろいろな時期、いろいろな種類の資料がぐちゃぐちゃに、ファイルにとりあえず挟んであった。
あんなに、ファイリングをちゃんとしろ、できないなんてだらしがない、といっていた母なのに。
おおまかに分類して、ひとつひとつを読んだ。
成績について先生がコメントをくれている紙というのがあった。
体育の先生は、結構わたしのことを買っていたみたいで、いつも、苦手なのに真面目に逃げずによく頑張ってる!とコメントをくれていた。
当時すごく嫌いだった英語の教師は、平均くらいの成績をとっているのに、わたしが怠けていると思ってるようだった。
美術や書道の先生は、作品をすごく褒めてくれていた。

セルフイメージの中高生時代

中学2年以降からの成績は惨々たるものだった、と、わたしは今まで思っていた。
手首を切ったり、髪を抜いたり、鏡が見られなくなったり、人としゃべれなくなったのもこの頃からだ。
わたしは落ちこぼれで怠け者で、もう人生には取り返しがつかないのだと思っていた。
母にも、怠け者だとかだらしないだとか、成績が低すぎるとずっと言われていた。だからそうだと思っていた。

客観的な中高生時代

大人になって見てみると、そんなことなかった。
わたしはあの長時間通学を耐えながら、よく勉強して、苦手な数学以外は平均を下回ることは少なかった。
成績のいい教科もいくつかは必ずあったし、本当によく頑張っていた。
いまだって机に座ると眠ってしまうのに、本当に本当によく頑張っていたのだと思った。
ただ、小学校までや、中学に入った頃に、すこし頭が良すぎただけだった。
クラスで2番や4番をとっていた成績が、平均ぐらいまで下がったので、周りも驚いたんだろう。
小学校と中学校では、勉強の量も質も違う。特に座学で話を聞いて理解するものが増える。
それがわたしには難しかったのかもしれない。家もものすごく遠くなった。中学に入ると必要になる社会性も大きく変わってくる。
わたしはとにかくがむしゃらに頑張っていた。傍目には居眠りばかりしていた、不真面目な落ちこぼれだったかもしれないけど。

SOSを出していた

母にはとにかく叱られて怒られていた。
あなたは運動はできないのだから、勉強だけでも頑張りなさい!と言われたこともあった。
だらしがない、とか、信じられない、とか、心が弱い、とか、努力が足りない、とか、
わたしが郊外の家に引っ越して朝早く起きるのが辛いと言っても、だいたい、母の体験談で打ち返されて、
母が学生の頃は自分で弁当も作ったのにあなたは何もできない、とか、母が学生の頃はひどい満員電車にも耐えた、とか、
同じようにできないあなたは怠けていると言われた。
母と父が選んだこの家に文句があるのか!とも、よく怒鳴られていた。
そうじゃなくて、わたしは、ただ、睡眠が思うように取れなくて体が辛い、というシンプルな話をしていただけだった。
疲れていて、大丈夫?と気遣って欲しいだけだった。
SOSを何度も発していた。誰も受信してくれる人はいなかった。
わたしがボロボロになりきったころ、母は、どうしてなにも話してくれなかったの!?わたしはいつも待っていたのに!と芝居掛かった口調でいって私を抱きしめたことがあった。
それは4、5年、タイミングが遅かったんだった。わたしは払いのける気力も、文句を言う気力もなかった。
ただ、何度母に話そうとしても、近所の犬の話だとか、他人の娘の話だとかをずっと脈絡を無視して被せてきてわたしの口を塞いでいたじゃないか、と、思ったことは覚えている。
むしろ私は、母以外の大人に話すべきだったのだ。だけど、信用できるひとはいなかった。
それに、自分のお母さんが敵だなんて、その頃はやっぱりどうしても認められなかった。

わたしは汚かった

夏休みや長期の休みはひたすら眠り続けて歯を磨く気力も髪を洗う気力もなかった。
母には、汚ギャル、とか、臭い、だらしない、とかいって、笑われたり蔑まれたりしていた。
前髪を切れ、だらしない、と言われても、お金がなくて、お金が欲しいというと、自分の小遣いから出せと言われて、わたしはそんなボロボロで部屋も当然散らかっていたので、部屋が汚いから小遣いは出さない、と言われて、わたしはずっとだらしなくて汚くて小遣いをもらう資格もなく前髪が長いままだった。床には洋服や本が海のように敷き詰められていた。
時々祖父がくれるお金で髪を切った。
わたしは心も体もただ疲れ果てていて、自転車も乗れず、お金もなく、近所に友達もいたことのない子どもだったから、逃げ出す先もわからないだけだった。
布団の中ではてなダイアリー2ちゃんねるを巡回するのだけが、家族や学校以外との繋がりだった。
いま、こうやって書いて見ると、ネグレクトや虐待に近いな、と思う。

わたしはずっと頑張っていた

今回はシンプルに短く書こう、と、一瞬は思ったのだけど、やっぱりこころのデトックスのために長くなってしまった。
成績表をみると、わたしはずっとずっと頑張っていた。
ときどき力尽きたり、投げ出したりしてもまた食らいついて取り戻してみたり、授業中たくさん寝てたのに本当によく頑張っていた。
対人関係が恐ろしいのに毎日学校に行って、家に帰ればずっと母と二人きりだったのに、死なずに、中退せずに、成績も普通程度は維持して、本当に頑張っていた。
わたしはずっと頑張っていたんだね、と、思ったら涙が出た。
わたしは生粋の怠け者なのだとわたし自身が信じていたところがあったけれど、わたしはずっと頑張っていた。
ただ、郊外からの通学に疲れていたのと、とんでもない母に育てられただけだった。

if

ただでさえもみくちゃの満員電車に制服で乗り込み、さらに痴漢にももみくちゃにされながら、往復3時間近く。
ボロボロになっても誰も省みてくれなかった。
今思えば、高校2、3年の担任はよく気遣ってくれていたような気がする。だけど、もう遅くて誰も信用できなくなっていた。
あの頃だれか、大人が気づいてくれたら。
あの頃、母がわたしをいたわってくれたら。
そう思えばキリがない。

過去が塗り替えられた

それでも、今回成績表を見ることができてよかった。
わたしは昔から頑張っていたし、頑張れる人間だ、と、大人になって思うことができた。
過去の自分のストーリーを、客観的な事実ですこし塗り替えることができた。
わたしは、だめな人間じゃなかった。
失敗しても疲れてもつまづいても、真面目に頑張って良くなってゆける人間だった。
だからよかった。
これからも過去と同じように、つまづいてもまた頑張ってゆけばいいのだから。

わたしのことを優先する

わたしは、わたしのことを優先することにした。
それから、生活のストレスが減った気がする。
要は、最優先事項を選定する基準を決めたということだ。

帰宅したらタスクはたくさん

「あなた、お風呂にする?ご飯にする?それとも、わ、た、し?」ってフレーズが昔あったけど、帰宅したらその瞬間からこなすべきタスクが存在するから大変だ。
自分の帰宅後のタスクは、2つに分けられる。自分のためのタスクと、家族全体のためのタスクだ。
自分のためのタスクは、化粧を落とす、ブラジャーを外して部屋着に着替える、風呂に入る、髪を乾かす、体のメンテをする、ご飯を食べる、寝る。
余裕があれば本を読んだりネットをしたり、求人を探したりする。
家族全体のためのタスクは、買い物の荷ほどきをする、食事を作る、洗濯をする、食卓の皿などを片付け洗い物をする、麦茶をつくる、などだ。

わたしは、わたしのために行動することが難しい。
「わたしがこんなことしていいのか?」
「わたしがしているこれは正しいやり方なのか?」
「わたしは何か他にやるべきことがあるんじゃないか?」
「それなのにわたしはわたしのことをしていていいのか?」
わたしの体や心のメンテナンスにかかることを、すぐネグレクトしようとする。自罰的なのだと思う。
それで、判断力が落ちて行動がゆっくりになって、色んなことがずっと気にかかったまま、1日が終わる。

同居して家族全体の共同生活のタスクが生じてから、自信は回復してきた。
他人のために、なにかをすると、わたしは動けるし、動けないわけではないということ自体が成功体験になって、いろいろと仕事をすることができる。
だけど、ついつい自分のことは後回しになる。特に風呂と就活!
それで、勝手に不満に思って文句を言いたい気持ちになってしまう。
Yもっと家のことやってくれたらいいのに、とか、わたしばっかり我慢してる!とか。

だけど、それはそもそも、わたしが風呂や就活という「自分」を「家庭」タスクの料理や片付けの後回しにしていることに問題がある。
「わたしは自分より家庭のことを優先にしてるのに(あなたはしないでのびのびして!)」というメソッドが生じる。
それに気がついたので、まず自分を優先してみることにした。
いまはなるべくまず最初に風呂に入る。
ヘビーなタスクはとっとと終わらせて、それから料理にかかる。多少夕飯が遅れようと、誰も死なない。
そういうとき、「自分のこと優先!」と心の中で呟いてる。
自分のケアがきちんとできると、不満も生じないし、家庭のタスクの速さもクオリティも上がる。

自分という資源を確保することが大事なんだ。
それから、家で手をつけづらいことは外でやることにした。
求職活動やgmailの整理は、他人から見えて恥ずかしいけど、どうせ家でやらないからなるべく学校でやるようにした。
それも自分優先!他人がどう思うかは関係ない。
自分がすっきりしてると余裕ができて、人ともコミュニケーション取れるし求職活動も進む。

なんかすごくいい感じになってきた。いい流れだなあ。

目の前のことをちゃんとやる

できないことをわかっているのに

わたしは完璧主義だ。なんでもできて、失敗しない人間になるように育てられた。
ただ、わたしの脳みそや身体は意見が違うみたいだ。
要領のいいほうじゃないし、キャパ超えのプレッシャーを感じるとすぐ逃げてしまう。
わたしが思うように振る舞おうとすると、脳と身体は、「わたしにはそれは無理です」と拒否してダウンする。
できないことをしようとしてしまうし、それができないことを、内心わかっている。
でも、やっぱりできないと、落ち込むし、自信をなくす。
考えることと、できることにミスマッチがある。

なってはいけない

わたしの古い知り合いには「ダメなひとたち」が多い。(ダメじゃないひともいる!)
長いこと親しいのに、本当に失礼なことだが、わたしは彼らのように「なりたくない」と思った。
なんとなく、さいきん、彼らもわたしのように思っていて、そう思いすぎるあまり、プレッシャーに潰れて、ダメになっていったのかなと思った。
みんな優しいし、辛いと思うことがわたしに似てる(だから仲が良い)。あとプライドが高くてキレるとめんどくさい。親が金持ちだったりして、なんだかんだ死ぬことはない。
ああなってはいけない、こうなってはいけない、そう思いすぎると、自分がすこしでも「なってはいけない」と思ったカタチになっていると感じた時に、すべてご破算になった気持ちになって、あまり良くないループから逃れるアクションを諦めてしまうのかもしれない。
むしろ、目の前の現実を受け止めきれず、良くないループに身を浸していく人も多いようにみえる。
みんな、、とは言い切れないが、人並み以上に真面目で、真っ当でありたいと思うのに、そうはできないことを受け止めきれず、いや、僕はそういうのじゃないんで、という顔をしてる人が多い。

先の心配より今日のこと

「失敗したらどうしよう」
「恥をかいたらどうしよう」
「ひどい目にあったらどうしよう」
「将来は大丈夫だろうか」
そういうことが、いつも気にかかる。
だけど、そういうことを考えるのはどうやら無駄みたいだ。
失敗や、恥や、ひどい目は、神経をすり減らしたって、遭遇するときは遭遇する。
将来のことは、いくら心配しても尽きない。
だからといって、考え無しにやろう!と、言うわけではない。
大切なのは、色々なことに気を取られすぎず、目の前にあることに全力を出して取り組むことだ。
明日のことは、もちろん考える。
だけど、明日のことが心配すぎて、今日のことがおろそかになったらよろしくない。心配するよりも先に、風呂を終えよう。

わたしはついつい、自分のことを後回しにしてしまう。
風呂よりも、同居人との夕食の用意を優先する。
他人の評価ベースで生きてきたから、他人のために動いてしまう。でも少し、自分のことを我慢しているときがある。
それで、相手が同じように自分を最優先にしてくれないことに、不満に思うことがある。
簡単な解決方法がある。
してほしいことは、口に出してお願いしてみる。
きいてもらえなくても、自分が軽んじられた訳ではないことを理解する。不満ならそれも話す。
自分のことを、自分で最優先にする。
夕飯の準備が多少遅れても、幸い同居人は余程じゃなきゃ文句はでない。具体的には、部屋に帰ったらまず風呂に入ってしまう。

KAN

完璧にできることなんてない。
いつも死なないようにだけ気をつけて、目の前の仕事をいっしょうけんめいやればいい。
大事なのは人に勝つことではない。
わたしが死なないこと、その次に、快くあること(わたしがわたしを大事にできていること)が重要だ。
プレッシャーに潰れて、眠り続けるのはもったいない(でも、そういうときもまた来るだろう、死んでなければいい)。
負けないこと投げ出さないこと…みたいになってしまった。
でも負けても投げ出しても、目の前のことをまたちゃんとやるのが大事なんだよ。

どうせ忘れるけど別にいいや

考えて考えて、「1日をやり切る」「目の前のことをちゃんとやる」というラーメン屋の標語みたいな結論に至った。
長い長い回り道だし、また私はこの言葉に囚われて、経緯を忘れて、無理をしてしまうんだろう。
どうせ忘れるけど、自分の思考を記録しておこうと思って書いた。あとで読み返して気がつけるといいけど。

なんのために書くか

なにか書きなよ、とみんなが言う

わたしは文章を書くのが好きだ。
好きだし、得意だ。
だけれど、自分の文章になんの価値があるかはよくわからない。ただ書くことが好きだ。人に見せようなんておこがましいように思う。
だから、ひとに、なにかに発表しなよ、とか、そういう仕事をしなよ、と言われてもピンとこなかった。
あまりやりたいと思わなかった。

視点

年齢を重ねるうちに、本や漫画のいろいろな作品が自分に新しい視点をあたえてくれることが増えてきた気がする。(10代とかの頃のことは何も思い出せないというのもあるけど。)
昔すでに読んだ作品を読み返しても、さいきんは違って見える。
それが、昔読んだときはわからなくて無駄だった、というよりかは、昔は昔でわたしの血肉になり、今は今でわたしの血肉になっている感じがある。
あと、自分のとこの教授もいってたと思うけど、歳をとると昔読んだ作品しか受け入れられなくなってくる。新しい作品に立ち向かってトライする体力とキャパがなくなるからだと思う。
だから、昔にたくさんの小説や漫画を読んで、自分の中にストックしてきたことは無駄にならなかった。
人との接し方、心の持ち方、同居する人間との間合いの取り方、1ヶ月3万円代での食費の回し方、そういう色々だ。

メディアのこと

テレビをつけるとイヤな気持ちになることが多くなった。
かといって、テレビに対立する概念としてのインターネットもけっこうイヤだ。漫画のバナー広告は過激なシーンばかり取り上げるし、ツイッターは色々な人の意見が目に入って、何が正しいのか、自分がどうしていいのかわからなくなる。
この間、ホモセクシュアルのキャラクターをテレビが笑い者にするのはもうやめなよ、みたいな話が盛り上がった時に、メディアがマイノリティを笑えば、世の中もそうしていいのだと思うようになるのだ、という話があった。

フィクションの役割

それで考えたことなのだけど、みんな、テレビやなにかが扱うフィクションを元に社会的規範を測るのであれば、わたしは、わたしの知ってほしい世界や、こうなってほしいということを文章にしたらいいのかもしれない。
変わってほしい、と思うことや、知ってほしい、こうしてほしい、と思うことを、書いてもいいのかもしれない。
特にフィクションの描く世界は、そういうものであるといいな、と思った。
誰かがそれで新しい視点を持って、いい世界になっていくといい。
そういうものを、いつかかけたらいいな。

わたしは鏡

コミュニケーションの「意味」のこと

ここ1、2週間くらい、またコミュニケーションの「意味」のことを強く意識するようになった。
以前にコミュニケーションの「意味」のことを意識していたのは、渋谷で働いていたころだ。
接客業をしていたときに、すべてのものに意味があって、だけどすべてのものに意味がない、と思いながら働いていて、そのころは人間と接する時にそのことを考えるとうまく対応できていた記憶があった。
だけどその「意味」にまつわるフレーズの記憶だけが残って、いつしかその本当の感覚は忘れてしまっていた。

すべてのものに意味がある

コミュニケーションには意味がある。
(というか、この世のすべてのものには意味がある。)
意味というのは言い換えれば、「本来の目的」「本当の目的」に近い。それは表面にあらわれてこないけれど、色々な形で表面から見て取れることがある。

たとえばどうにもならない難癖をつける人は、別にその問題をどうにかして欲しいわけではない。
怒るだけ怒って人を踏みにじって発散したいだけだ。
そういうときは怒るだけ怒らせつつ、踏みにじりたいように踏みにじらせたように振舞って、抵抗せず、受け流して、煽らず、静かに謝り続けると相手は勝手に勝利を得た気分になって帰っていく。

で、それをどうやって察するかというと、相手を察するのではなくて、状況や目に見えるところから相手に入り込んで、相手になりきってしまうのだ。
相手の表情を見て仕草を見て、服装や持ち物や髪のベタ付き方や、財布や、靴の汚れや、ここに来るまでの動線から、そのすべての意味をとらえて処理して相手になりきる。
そのすべてを一瞬でやって、答えとして出力する。つまり、目の前にいるのは私で、その私がいま求めている行動を自分が取ればいい。
そういうことを私はしていた。
で、また最近その感覚を思い出した。

「その感覚」は怖い

大学卒業して接客業をしていたうち半年間くらい、その感覚はあった。
最初のうちは、人とコミュニケーションを取るのが楽しくなってよかった。正解だ、と思える答えを出せるから。正解だ、と思えるのは、相手がわたしだからだ。
だけど、それは「本当に」相手にとっては正解ではないかもしれない。だから、意味は、あって、無い。
そのうちに目から入った情報を処理して出力するスピードが速くなりすぎて、街ですれ違って目に入ったひとの気持ちが「わかる」ようになりはじめた。
でも、そんなことはありえない。わたしは、そこには無い意味を読み始めているのではないか、と、自分に思った。そうなってきたらそれは病気だ。
それで接客業は一度やめて、半年間くらい事務のアルバイトをしていた。

その時もこの感覚について書こうとして、やはりうまく書けなかった覚えがある。
いまも、こうして書いてはみたけれど、後から読み返して理解できるかはわからない。
こういう感覚を持っていると便利だけど、また病気みたいになっても気持ちが悪い。
かといって、まだこの感覚を再び同じレベルまでもってきているとは思えないけど。

他人のモックを自分のなかに構築する

なんだか難しく書きすぎたけれど、もっと簡単に書き直してみよう。
わたしは自分のために行動できないし、自分の感情を表すことがうまくできない。
だから、いっそまず自分というものを一度空っぽにしてしまう。
コミュニケーションを取るべき人間が目の前に現れたら、その人を自分のなかにデータとしてコピーする。
データのコピーの方法は、その人の振る舞いや見た目、持ち物を目で見ることだ。
目で見たデータは、私の中で、いろいろな社会的な記号、文化的な記号に処理されて、その人を自分のなかに簡単に再構築する。
私は、私の中にコピーされたそのひとのモックみたいなものから、その人が必要としている行動を出力する。
もしそれが成功しなくても、私は傷つかない。導き出したのは私の中の他人のコピーだから。
成功していれば、わたしは、人間とうまくコミュニケーションが取れたな、と思って自己肯定感が上がる。
で、だいたい成功する。
ただ、処理から出力へのスピードが上がりすぎると、それが狂気なのか、賢さなのか自分でもわからなくなって、ちょっと怖くなってくる。

ヒトから求められること

わたしは「ヒトから求められる」感覚なしには存在できない。
自分というものが無いから、他人に求められることでしか自分の存在が証明できない。
逆に言えば、「相手が何を自分に求めているか」というのを、相手になりきって想像して振舞うことがとても楽しい。

人間は光だ。
わたしは鏡だ。なにもなければなにも写らないし、真っ暗ななかにいたら真っ暗なままだ。
他の人がきたら、その光を受けてやっと存在しているようになる。
そして、他人の姿を写し出す。
空っぽには空っぽなりの社会での戦い方があるということだ。

気持ち悪さ

じつはこの感覚を思い出したのは、この間、面接の練習をグループでしたからだ。
面接官の役をしてフィードバックをするとき、自分でも驚くほどスラスラと相手についてどういう印象を受けたか、どういう風に帰ると良さが出るか、という言葉がでてきた。
占い師みたいだった。
それはすごく楽しくて、とても気持ちが悪かった。
これを書いている今も、あの感覚は面白いし自分には必要だし楽しいけれど、書いて見てやっぱりうまく説明しきれない感じがあって気持ちが悪い。
だってこんなのスピリチャルか病気だと思う。
これに頼ればきっとラクだけど、一生演劇をして生きるようなものだ。
そしてその夢がふっとさめてしまったら、それはそれでやっぱり辛いのだ。

笑顔をすると善良な人間になる

頭の中を一度空っぽにして、目の下の筋肉を押し上げて、前歯の上の筋肉を引き上げて歯をむき出しにして、「わたしは芯から善良な人間なのだ」という気持ちで笑ってみる。
そうすると頭の中がそのまま真っ白になって気持ちよくなってこの感覚が戻ってくる。
目の前の人に芯から親切にしたくなる。
接客の仕事では笑顔で「いらっしゃいませ!」というときにこの感覚になっていた。
たこれをやったら、まあ、仕事は決まるだろうな、と、変な安心感がある。この感じがある間に決められるよう、まあ頑張ろう。どうせわたしには波があるのだから。

好きな漫画

となりのヤングジャンプで連載している『しをちゃんとぼく』という漫画が好きだ。
www.tonarinoyj.jp
コレ。
通称「しをちゃん」こと「死を失いし者」と小学生の「ぼく」(顔がもっちゃりしている)の日常系コメディ漫画なのだけど、この漫画の登場人物のそれぞれに自分を投影できる。し、してしまう。

「しをちゃん」のこと

「しをちゃん」は、死なない。死なないので、危険を感じる必要がない。だから、つまづいても転ぶことを防ぐことをするひつようがないので、頭から転ぶ。社会性を持とうという努力があるから、頭から転ぶと脳みそをこぼして迷惑になる…と悩む「しをちゃん」が面白い。
わたしは言語IQというのが平均よりもまあまあ高いそうだ。その代わり、動作IQという身体への出力の能力が平均より少し低い。
だからわたしは、頭ではわかっているのに身体が動かないもどかしさ、社会に馴染みたいのに上手く馴染めないもどかしさみたいなものを、この「しをちゃん」についつい重ねてしまう。

「ちかもとさん」のこと

DIYで新世界の創造に励む「ちかもとさん(力を求めし者さん)」もいい味を出してる。
この人もまた自意識過剰で気弱で良くも悪くも人の顔色を見る人で、かわいそうで可愛い。
わたしはまた、中学生の頃、人と話すのも目を合わせるのも怖くて、自分の顔が気持ち悪くて、マスクして毎日学校に通っていた時期のことを思い出して切ない。
あ〜、わかるわかる!と、思う。

「ぼく」のこと

老成したような子どもの主人公の「ぼく」も、友達いなさそうで好きだ。
落ち着いているね、と言われそうな子だけど、それでもまだ、子どもだというところが描かれているのが良い。わたしもそういう子どもだった。
どのキャラクターにも自分を重ねて読んでいる。誰にも欠けたところがあるのだけど、優しい世界なので楽しい。

フィクションの滋養を受け取れる頃

この間、大学時代の友人と、漫画を読まなくなったという話をしていた。
特に現代日本を舞台にした漫画で描かれるような「ドロドロした」感情、「リアルな」「複雑な」感情、みたいなもの、幼く思えてしまってどうにも読んでられないよね、という話をしていた。
我々は年を取ってしまって、そういうものにかかずらわるリソースがもうない。
あと服ももうフレッドペリーとかを一生懸命買う元気はなくてユニクロでいいやってなってる。
若い頃をサバイブした結果として、あとは生活をやってゆかねばならない。
それだから、フィクションをフィクションとして楽しめるようになった。
だから優しくて、だけど共感できて生きづらさを共有できたような気持ちになるこの作品が好きなのだと思う。

若いつもりが年をとった

まだまだ若いとはいえ、まあ1周目は終わった、と、思う。おかげで色々なものから自由になれた。こんな悟ったような口きくにはまだぜんぜん若いけど、だいぶ楽しい。
今までを振り返ると、もっと良い選択肢はあったかもしれない。
あの時ああしていれば、とか、どうしてあんな無駄な労力を、とか、思うことは多い。
とはいえ、色々あってもとにかく死なずにここまでこれてよかったね〜楽しいね〜と友達とも話していた。
生きづらいけど、今は余生、わたしはしをちゃんにそういう感じを投影して、好きでいるんだろうな〜。
全部読んでるけど作者の方を応援したくて、ようやく単行本を買った。絵も好みだし、この方がRTしている人を追っていくと性癖を煮詰めたみたいな作家さんに辿り着いたりする…。
久しぶりに、漫画読んだり、描いているひとをディグって世界が広がっていて、とても楽しい最近だ。
ウェブ漫画は1巻で途切れちゃうのとか多いけど、今後も頑張ってほしいな〜

しをちゃんとぼく 1 (ヤングジャンプコミックス)

しをちゃんとぼく 1 (ヤングジャンプコミックス)

寝付けない

毎晩、夜が来るたびに同居人をひとつ嫌いになる。
原因は、彼と一緒に寝ることでわたしが寝付けなくなっていることだ。

イビキ

さいきん、同居人のイビキは殊更ひどくなった。
以前はブリーズライトをつけていたらどうにかおさまっていたものの、ここしばらくはどうにもならない。いや、していないよりかはしているほうが、イビキの始まりは遅いような…気がする。
一時期、イビキはほぼおさまったように思えた。ブリーズライトを連用していた時期で、しないでもうるさくなくなったときがあった。
それがさいきんは、深みのあるイビキが一晩中続く。
夜が深くなればなるほど、イビキの深みは増して行く。

狭くなるベッド

イビキだけではない。
同居人の身体の横幅も、さいきん増したように思う。
狭いスペースで身体をタテにして寝るのは決して気楽ではない。
それから、寝ながら抱きしめて来るのは、暑いし苦しいとはいえまだ可愛い。
けれど、暑くなって広げた肘に勢いよく打たれたり、重たい腕を乗せられたりするのはたまらない。
そのゼロ距離状態でイビキをかかれるのだからたまらない。
そのうちに身体に熱が移って、眠気は去って寝付けなくなる。

睡眠とわたし

わたしは、眠気がこないときもあるが、奇跡的に眠気があるときもこれでは寝付けない。
睡眠が足りなかったりうまくいかないことは、わたしにとって致命的だ。たっぷり睡眠を取らないと、機嫌も体調もすべてが崩れる。
夜が来るたびに殺意が沸く。どうしてこんなにイビキは神経を逆なでするのか。
遠くの方を車が走って行くような静かで心地よい音と入れ替わらないものか。
そう思っている間にイビキはどんどん深みを増し、布団は暑くなり、眠気は醒めていく。そこに暑くなった同居人の肘鉄が入る。
本当に、たまったものじゃない。
こんなことの繰り返しなので、布団に入る時間になるのがなんとなく憂鬱だ。

仕事のこと

この問題には、2つの具体的な解決案がある。
・私が仕事に就いて、いまより部屋数の多い場所に引っ越す。
・同居人が痩せて、イビキをかかないようにする。
同居人には、痩せる以外にも課題をいくつか渡してしまっている。まずはそちらを
まあ、わたしが仕事に就くのが妥当だろう。痩せてもイビキをかくケースもあるし。
就職活動は失敗ばかりだ。頑張ってるんだけどなあ…同居人を不安にさせることも多くて、この間は喧嘩の挙句マウスを投げた。早く働きたい。

自分を嫌いになる

夜中にこういうことを一人で考えて眠れなくて自分を嫌いになっていくのが一番いやだ。
夜が来るたびに眠れない自分をひとつ嫌いになる。
同居人をひとつ嫌いになる分は、昼間にひとつ、いや、ふたつぶんくらい取り戻せるからいい。
わたしのことを嫌いになるのは、少しずつ、見えない形で重なっていく。
普通に眠れて普通に動ける、そういう普通のことができない自分のことを嫌いになっていくのは辛い。

同居人のイビキ以外にも、仕事のことを考えるとなかなか夜も眠れない。
睡眠薬をもらったが、それを飲むと眠れても朝起きられない。
それになぜか薬で眠った翌朝の顔は、どこがどうとはいえないのだけどすごく不細工だ。
起きられないわたしのことも、不細工なわたしのことも、わたしは嫌いだ。ふたつ、嫌いになって重なっていく。
かといって寝不足じゃ、昼間は朦朧としているだけだ。
同居人はただ寝ているだけなのに、勝手に寝付けなくてイライラする自分のことも嫌いになる。
わたしはこれ以上わたしのことを、もう嫌いになりたくないよ〜。

つかれた

ああ、早く引っ越したい。
そして、ソファベッドでいいから自分一人で眠れる場所がほしい。
できれば、同居人のスタジオになる部屋は今と違ってドアで区切られているといい。

眠れない。眠りたい。疲れた。参った。