17/05/06 Sat. 蚕

どうにか8時に起きて散歩に出ることができた。
延滞していた本を図書館まで返しにいく道のりはちょうど往復で2キロ弱。ちょっとした散歩にはいい距離だ。
ストレスの発散にはランニングがいちばんいいけれど、8割くらいの精度、密度で終わる運動の方が後々キャパを残して、習慣化しやすいかもしれない。気楽にできるのが一番だ。
走るとなると、荷物とか汗とか日焼け対策とか化粧とか、いろいろなことが気になってしまう。

春に芽吹いた植物が葉をさらに繁らせ、あちこちで花を咲かせている。
蝶が飛んでいるのも見かけた。
植物を見ていると気持ちが安らぐ。
民家の脇に突然クワの葉が芽吹いているのもみた。小学校の時、理科の課題で蚕を育てていたときは、こういうクワの新鮮な新芽を一生懸命探したものだった。

蚕はクワの葉しか食べない。
クワの葉を食べて肥え太り、糸を吐いて繭をつくる。
繭は羽化する前に収穫されて、なかの蛹が羽化することはない。
羽化しても蚕は飛べない。体は丸く太っていて、のそのそと歩いて交尾して卵を産む。そして数日で死ぬ。

自分も、人間ではなく、蚕だったらいいのにと思う。
自分の人生は自分の所有物である、と思っているひとには信じられないことだろう。
わたしの気持ちは無視され、わたしの人生は親のためのものだった。出来は悪かったけれど。
自分のために生きるなんて、自分のやりたいことをするなんて、許されてこなかったことだ。
よく、羽ばたけ!とか、飛び立て!とかいうフレーズが若者に向けられるけど、いつもウンザリしていた。
中二病のひとつと見ることもできるけど、そもそも羽ばたいたり飛び立ったりするために生きていなかったし、できなかったから、苦しかった。
蝶はその羽根で遠くへ飛ぶことができる。花の蜜を吸ったり自分の力で遠くへ行ったりできる。
蚕は羽ばたくために生まれていない。繭を取られて殺されるために生きている。運良く羽化しても羽根は形式的についているだけで、人間のつくった箱の中の狭い世界で子供を残す。ただ生きるために生きている。
いきなり野生に、さあ!いっておいで!と放たれても、すぐ死ぬのが関の山だ。
でもそれは蚕に生まれたのだから仕方ない。
わたしは蚕ではないから、人間らしく生きる努力を覚える必要がある。
ただ生きるために生きているだけではいけない、と、世の中のひとが言う。目的をみつけないといけないと。
わたしにはわからない。明日生きるために生きていてはいけないんだろうか。
クワを食べて繭をつくり収穫するためだけに生きたい。
仕事をして金を稼ぎ生きて行くためだけに生きたい。
ただ、Yと一緒にいろいろな景色を見られたらいいとは思っている。
そうしたら子供をつくり子供のために生きてゆくでもいいだろう。わたしは空っぽだ。なにもない。一応蛾のカタチになる蚕のように、一応人間のカタチをしている感じだ。

卯月妙子の漫画に時折出てきた「期限付きで生きていない奴ら」という言葉がある。
わたしたちは、そんな風に何十年も生きるなんてことは考えたことがない「期限付き」サイドの人間だ。
次のデートまで生きる。
次のパーティーまで生きる。
だから、夜中走るのも、ライブでダイブして怪我するくらいむちゃくちゃやるのも、危ないとか怖いとは思わない。そこで死ぬならそこまでだとしか思わない。それが運命だ。諸行無常だ。
だけど、例えば、次の旅行まで生きる、次の子どもの卒業まで生きる、そうできたら、結果的に、この苦しさには追われずに生きられるかもしれない。生活や、人間と関係することなどの別の苦しさには追われるかもしれない。
もう少し君といろいろな景色を見たい。ただそれだけのために私はまだ生きたい。