スピリチャルのゲートドラッグ

わたしはスピリチャルなものがあまり好きではない。
正確には、理由は3つある。
①お金を儲けたり人を操作しようとする仕組みがあることが嫌い
②「正しさ」を盲信して客観性を欠くひとが苦手
③人生が改善したことを「得体の知れないなにか」の力によるとするのが嫌い

スピリチャルは、プログラミングと同じだと思う。
ただ、世界は、プログラミングとは比べものにならないほど様々な要素が複雑に絡み合ってできている。
だからそれを思うように改変するのは難しい。
それを(ある程度)読み解いてコントロールしようとする試みがスピリチャルだ。

神様は、いるけどいない。
ひとは神様に頭を垂れて祈るあいだ、自分がなにを望み、なにができるのかを考え、改めて知ることができる。
わたしは台所に熊手を飾っている。
熊手は装置だ。
熊手を目にする度、見守られている間は、善く生きるため、あと出世に努力しなければならない、と、思う。
その思考を、熊手は呼び起こす。呼び起こすための装置として存在している。
ひとは善く生きようと生活の中でなかなか思う時間がない。
だから、一瞬でも人生を大きな視点で真剣に考えるための装置が必要だ。
それが神様だ。神様に照らして、自分がどう生きるかを考える。
だから、神様のお陰で成功するのではない。
神様に向き合ってよく考えた自分のおかげで成功する。
世界を変える大きな力は自分の中にある。それを神様と呼ぶのならまあ説明はつく。
その成功(または失敗)の成功経験や責任を、自分の外にあるもののせい(お陰)にするから、こじれてくる。
不信心が理由でバチが当たるのじゃない。
バチが当たったのじゃなく、不信心つまりは、自分や世界と真剣に向き合わなかったことや、世界のプログラムの巡り合わせに悪く失敗しただけだ。
原因と、結果が逆なんだ。

SELF CLEANING BOOK―あたらしい自分になる本

SELF CLEANING BOOK―あたらしい自分になる本

リンク先の本は、ソフトなスピリチャルの本だ。
この本は、生活をより良くしていくためのスピリチャルな方法が柔和な語り口で書かれている。
押し付けがましさもないし、できる範囲ではじめなよ、という雰囲気は好きだ。
部屋を綺麗にすると気持ちがいいよ、とか、「ありがとう」と
でも、どうしてこんなに良い方法をいくつも知っているひとでも、原因と結果を入れ替えてしまうのだろう。

スピリチャルのひとたちの勧める生活の中で心をfixする方法は、おおむね効果がある。
行動として正しいから効果がある。
部屋を綺麗にするといろいろ上手く回るようになるよ!という話があるんだけど、その中にこんな感じの一文があった。
「うつっぽいひとって、部屋が汚れているっていうでしょ。部屋はこころの鏡ともいうよね」
部屋が汚れているからうつっぽいんじゃない。
うつっぽいから部屋が汚れているんだ。
部屋を綺麗にしたら、視覚的な情報量も減るし、選択や判断をするコストも減って、脳にかかる負荷が減るから、うつ状態は多少改善するだろう。
改善するのはなにかわけのわからない力のためじゃない。
たとえば心が落ち着いていれば部屋が汚くったってよかろう。
うつっぽいひとでも部屋がきれいなひとはいるだろう。
でも、行動の方から身体や心をfixしていくのは、良い視点だと思う。

だけど、解読しきれない情報というのはある。
世界は情報だ。すべてに意味があり、すべてに意味がない。
わたしが新宿をなんとなく嫌だと思う理由は、分解して説明できない。
なんとなく嫌だとは毎回思う。バイブスが合わないとしか表現できない。
「バイブス」に含まれるのは、わたしの脳や身体が感じる気圧だったり、空気の匂いや湿度だったり、光の量だったり、音や人の量、そういう細かい細かい外的要因だ。生理とか空腹とか、自分の身体の問題や過去の記憶もそれに含まれるだろう。
それがまとめられて答えだけがはじき出される。なんか嫌、なんかここは合わない。
それの名前は霊でもバイブスでもなんでもいい。
論理を読み解けないからといって、自分のコントロール外のもののようにして逃げてしまって、方法にだけ固執するのは気に食わない。

毎日100人ぐらいのレジ打ちするアルバイトをしていたら、「わかってしまう」ようになったことがある。
レジに向かってくるお客の表情や肌の色、微妙な体の動きや荷物の持ちかたで、本にカバーをつけたがるタイプかどうか、ビニール袋を欲しがるかどうか、「わかる」ようになった。
急いでいる消費者は赤ちゃんのように傲慢なので、どのようなトーンとスピードの声色で話しかければトラブルが起こらないかも瞬時に「わかる」ようになった。
それは単に、わたしがAIのようにレジ打ちだけを毎日毎日し続けた結果、データが蓄積されて、計算スピードも上がって思考でそれを読み解けなくなって、答えだけが出てくる状態になったのだった。
それが進んで、街ゆく人の顔をみて、今この人は内臓が悪いとか、そういうことが頭に浮かんでくるようになった。
計算式がみえないから、それが、自分の根拠のない病的な思い込みなのか、ファクトとしてその推測を感ずるに至る要素が相手に存在するのかわからないのが不気味だった。
「わかっている」のではなく、単に予測の精度が高いのに、自分自身が「わかっている」としか思えなくなってきて、それが恐ろしかった。
それでそのアルバイトは辞めた。

上に書いた本はひとに勧められて読んで、ときどき、人生のわけがわからなくなったときに、それを改善させられる方法がいくつも書いてあるので、大事に持っている。
書いて物事を整理するとか、自分の希望を洗い出すとかそういうのはときどき実践する。
でも、「天からの」とか「高次の記憶」みたいなことにはいちいち心の中で反論するようにしている。
理屈っぽいひとにこそ、原因と結果の公式をいくつも示すスピリチャルはフィットする。それは、よくわかる。
だからこそ、絶えず警戒しつづけて、こういうゲートドラッグも蹴り付けながら参考にする。