読書には筋肉がいる

読書には実は筋肉がいる。
これは本当のことだ。
ベッドに寝そべって本を読むなんて、腕立て伏せが上手でないとできない。
かといって、長時間同じ姿勢で腰掛けているのもなかなか難しい。つい姿勢が悪くなって肩や腰も痛くなってくる。
でもツイッターはのべつまくなしできる。違いは、集中力もあるけれど、筋肉だと思う。
まず腕の筋肉が足りない。
腕を伸ばして本を保定しているのがけっこうきつい。
スマートフォンを持つだけならそれは必要ない。
疲れ果てた時にカバンの奥底から本をひっぱりだしてページを探すのにもなかなかの労力と筋力がいる。
つまり、「本を読む」という行動にかかる労力と、「情報を頭に入れる」という学習にかかる労力の2つがかかってるということだ。

UI

さいきん、電子書籍だと本がよみやすい。
電子書籍だと、iPhoneKindleさえあれば、手元で指を少し動かすだけでいい。
満員電車の揺れる中でもバランスを維持しながら読める。
どこを読んでいたか探す必要がない。
どの本を持ち歩くべきか、複数の本の間で悩む必要もない。
「本を読む」という行動にかかるコストがかなり削減されて、「情報を頭に入れる」に直行できるからいいんだろう。
集中力や体力にキャパがあるわたしには、とても助かる。

準・自炊

自炊というほどじゃないけど、今夜は試しに買って読んでいなかったリアル書籍をカメラで全ページ撮影してdropboxに入れてみた。
そのままiPhoneの内部に入れておいて読んでもいいのだけど、
けっこうな枚数があるので読み終えたら削除したいのと、タテ横が回転しているのをPCで直したい。
それから、PCから続きを読めるのもいい。
明日、読んでみるのが楽しみだ。
よく考えたら、手帳についてはずっとカメラで撮影して管理してたのに、どうして思いつかなかったんだろう。
(手帳は、書いて整理する行為に関してはアナログでやりたくて、予定の確認をページ撮影してやっていた)

「本との出会い」はアナログで

それでもどうして紙の書籍を買うかというと、書籍の検索機能はやっぱりアナログでの方がぐっと精度が高いからだ。
出版社の確認、大まかな内容の確認、紙質や装丁から書籍としての質の類推がしやすいので、それが「どういう立ち位置の本」なのかがわかりやすい。
また、いろいろな書籍をみていて、自分にとって隠れたニーズのある書籍と偶然に出会う「ブラウジング」も、アナログならではだと思う。
(まあ、今は「検索ワードで思わぬものがひっかかって」という新しい形でのブラウジングもあるのかなーと思う。でもやっぱりそれは今までの出会い方とは質が違う気がしてる)

アナログで買ってデジタルで読みたい

アナログでの「出会い」とデジタルでの「利便性」、両方がうまく合わさった形が生まれれば、いいのになあ、と思う。
アナログで買ってデジタルで読みたい。
CDなんかだと、ダウンロードコードがついてることも最近は多くなってきた。

情報へのアクセス

わたしは、本を読みたい気持ちはあるのに、ハード面でなかなか読めない。
司書課程で勉強した図書館の障害者サービスを思い出す。
なんというか、いまは後天的、極軽度ディスレクシア状態、とでも言おうか。
学習障害で苦しんでいるひとには失礼に思われるかもしれない。
ただ本当に、なんというか、自分がこうやって少し苦しんでいることの解決の糸口は、ディスレクシアや発達のひとたち向けの学習教材などにあるような気がする。
いろいろなアプローチで読みやすく、アクセスしやすくするということは、障害のあるなしに関わらずいろいろな人に役立つことだ。年をとったり、病気で判断能力や体力が落ちたり、そういうときに。
それがもっと広く広まれば、ひいては商機もあるのでは、、

本との出会いは一瞬その現実から自分を離れさせてくれる。
だから小さい頃、本はずっとわたしの味方だった。
電子書籍が本当に手に取りやすくなってきて、よかったなあ。
もっとモリモリ本を読もう!そろそろ画像のアップロードが終わったはずだ。